船津 康次 トランスコスモス株式会社代表取締役会長兼CEO/日本中華總商会理事
アジアの時代到来で日中が世界経済のリーダーシップを

トランスコスモス株式会社は、ネットからリアルまで企業と消費者をつなぐ全チャンネルをITアウトソーシングサービスで支えるデジタル時代の総合商社である。同社の会長兼CEOの船津康次氏は、かつて、孫文など中国近現代史における革命の志士たちと親交を深め、生涯のすべてを中日友好にささげた日本の外交官、船津辰一郎氏の孫にあたる。中日国交正常化50周年に際し、船津辰一郎氏の生きざま、今後の中日関係の展望などについて伺った。

祖父は「船津和平工作」で知られる日中友好の外交官

―― 日中友好促進のため、実際的な仕事をされてきた代表的な人物のお一人として、日中国交正常化50年に際しての思いなど、お話しいただけますか。

船津 個人的な話になりますが、私の祖父は外交官でした。明治から大正そして昭和の初めにかけ、外交官として人生のほとんどを中国で暮らしました。外交官を辞めた後も中国で暮らし、民間人として、日中友好のために人生を捧げました。

1937年7月、盧溝橋事件が発生しました。昭和天皇としては、日本と中国は仲良くしなければいけない、戦争は本当によくないという思いがあったようで、日本政府は当初不拡大方針をとっていました。それにもかかわらず、日本と中国が本格的な戦争状態に入っていく様相を見せ始めました。

緊迫した日中情勢を平和的に解決したい日本外務省の意向を受け、中国政府との和平交渉を託されたのが、当時民間人であった船津辰一郎(ふなつ・たついちろう)という私の祖父だったのです。

祖父は外交官時代、香港、南京領事を経て、天津、上海などの総領事を歴任しました。長年にわたって中国各地で外交に携わっており、中国政府の要人をはじめ、数多くの有力者と幅広い人脈があったため、白羽の矢が立ったのです。

中国政府と和平交渉を順調に進めていた最中、軍部が交戦状態に陥り、交渉は失敗に終わります。この交渉は、のちに「船津和平工作」と呼ばれることになりますが、この後、日本は戦争拡大の一途をたどります。

また、1940年、祖父は松岡洋右外相から中国の重慶政権との和平工作の要請を受け、交渉を開始しますが、日本軍部の介入により、この和平交渉も未完に終わります。そして、時局は世界大戦へと向かっていきました。

このとき、祖父はものすごく落胆したと思います。それでも中国に残って、72歳で日本の敗戦を迎えます。それから中国に取り残された邦人を無事に帰国させるため、一年以上、上海を拠点に奔走します。そして、それが最後の仕事となりました。最終の船で日本に戻ってきた祖父は、過労がたたったのか発病し、翌47年に他界、享年73の生涯を終えました。

祖父は無念だったと思います。生涯を日中友好に捧げ、日中関係史にも登場する活躍をするわけですが、その思いは達せられませんでした。

私自身が50年経って思うことは、1972年の日中国交正常化そのものが大感動なのです。当時私は学生で、その意味をまだよく理解してはいませんでしたが、「日中友好」をテーマに人生をささげた祖父の生涯を振り返れば、この時、日中が初めて「友好」のスタート地点に立てたということであり、とてもうれしく感慨深いものがあります。

総領事時代の船津辰一郎氏

 

人と人とのつながりをもっとも大切にする

―― 船津辰一郎氏は日本と中国の平和のために尽力されたわけですが、会長に対してどのような影響を与えていますか。

船津 私が生まれた1952年、すでに祖父は他界していたので会ったことはありませんが、祖父の生きざまを知るにつれ、本当に公平・公正な物の考え方をする人だったという印象です。

外交官は日本という国を背負っているわけですが、仕事の上でも、日中友好という信念はぶれていません。いかなる環境にも左右されずに、おかしなことはおかしいと信念をもって自分の意見を貫いた人でした。

そして、人と人とのつながりをもっとも大切にした人でした。外交官時代の様子を回想した方の言葉を借りれば、「日中間の政情がいかに混乱紛糾している時でも、船津公邸に行くと、そこには敵も味方もなく和気あいあいと談合している不思議な光景があった」そうです。まさに人と人とのつながりが出来ているからこそ、敵とも話し合える関係だったということです。

1912年、祖父が39歳の時、南京領事に着任するのですが、辛亥革命の主役たる革命派の孫文や黄興、そして新政権を担おうとする袁世凱陣営との間のやり取りが生々しく日記に残されています。

1921年から22年、祖父は上海の総領事でしたが、22年に孫文と並んで移っている写真があります。中国共産党が結党したのが21年の上海でした。孫文の主導により第1次国共合作が成立するのはそのわずか3年後です。

孫文自身は1925年に亡くなりましたが、それまで祖父は上海でいろんな相談に乗っていたようです。人間関係を築くのは簡単ではありません。人と人とのつながりを本当に大切にした祖父の生き方は、大変素晴らしいと尊敬しています。

孫文(中列左四番目)と船津辰一郎総領事 (孫文の右隣、1922年、上海)

互いに学ぶというセンスを持つべき

―― 両国関係がとても難しい時代に、船津辰一郎氏が信念を持って尽力したことに感動します。国交正常化から50年経った現在も、日本と中国の間には難しい問題が出てきています。

船津 本当にそうです。そうした中で何が大事かというと、やはり人のつながりではないでしょうか。私はビジネスをやっている人間ですので、まさにビジネスをやる人たちは、思いを共有して、しっかりとつながっていくことが大事だと思っています。

日本と中国は一衣帯水の隣国と言われますが、交流の歴史はとても長く、特に遣隋使、遣唐使は有名です。考えてもみてください。漢字がなかったら、私たち日本人には文字がなく、言葉もなかったかもしれません。奈良の平城京や京都の平安京にしても、中国の都市設計から学んだものです。日本は中国からとても大きな文化の恩恵を受けているのです。

明治維新以降、中国は近代化、工業化を学ぶため、多くの留学生が日本にやってきます。その中から中国の近代化を推進する志士が出現することになります。

しかし、その後、日本の軍部による侵略戦争により、両国の友好交流は途絶えてしまいます。戦後、1972年になってようやく国交が正常化し、中国の改革開放政策の中で、日本の優秀な技術者たちが中国に協力する形で、経済交流を推し進めていくのです。

2000年以降、私自身、中国ビジネスに関わっていくのですが、悲しいかな、日本の経営者は中国のことを知らないと強く感じました。

高度経済成長期に日本は経済力をつけましたが、敗戦国である日本は戦後、常にアメリカの方を向いていました。国交がなかった中国に目が向いていなかったため、日本の経営者たちは、経済状況だけを見て、中国より自分たちは進んでいる、と中途半端に勘違いをしていた。つまり、中国に学ぶというセンスが欠けていたように思います。

国交正常化の後、中国の鄧小平副総理が来日し、当時の日本人は中国との悲惨な戦争の歴史を知っているので、少しでも中国の改革開放に貢献したいと積極的に技術協力する気持ちを持って臨みました。

しかし、その後の90年代から2000年代初頭にかけて、日本は中国の実態がつかめていなかったように思います。実は、中国はその間に大きく経済成長する基盤を築いていたのです。

ご存じのように、中国は今では日本を抜いて世界2位の経済大国になりました。IT分野で日本は世界に3周も4周も遅れています。中国はIT産業をはじめ、電気自動車やドローン、AIの医療現場での活用など、圧倒的に世界の先端を走っています。

『日中共同声明』の中に「戦略的互恵関係」という言葉が出て来ますが、その精神を共有して、進んでいる中国と一緒に経済発展していこうという時代観を持つことが大事だと思います。

トランスコスモスチャイナの仕事風景

世界経済はアジアの時代が必ず到来する

―― 今後の日中関係をどのように展望していますか。

船津 日中関係は、10年、20年単位で考えず、100年単位で見るべきだと思います。そのくらいのスケールで中国は動いています。

国というのは一つの包むものだと例えることができます。その中で大事なのは動いている人です。ですから、ビジネスの場合もそうですが、人がしっかりつながって、同じ目標に向かって進んでいけば、多少その包みが破れても、つながっていけるはずだと思います。

未来はつくるものですから、あまり目の前のことに一喜一憂するのではなく、歴史を正しく認識し、ポジティブ思考で未来を考えていくことが大切です。

今後、世界経済は、間違いなくアジアの時代になります。中国だけでなく、韓国、それからASEAN(東南アジア諸国連合)で、これはもう間違いありません。アジアの時代が到来し、世界経済の大きなセクターになっていくと確信しています。

その観点でいうと、今年はすごく大事な年です。2022年1月1日、RCEP(地域的な包括的経済連携協定)がスタートしました。日中韓プラスASEAN、10カ国全部入っています。これは世界の中でも、経済上の非常に重要なセクターになっていきます。RCEPの中で、最大の経済パワーを持っているのは当然中国で、2番目は日本です。日本と中国は、RCEPの中で、強い経済パワーを生かして、リーダーシップを取り、強固にしていく必要があると思います。