日本のノーベル賞科学技術について(その23)~赤﨑勇博士~
~実用化の見通しが全くない仕事こそやるべき仕事~~青色発光ダイオードを世界で初めて輝かせた~
藤原洋 株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEO

スウェーデン王立科学アカデミーは、2014年10月7日同年のノーベル物理学賞を赤﨑勇・名城大学教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大学教授(1954年生まれ、当時60歳)に授与すると発表しました。青色発光ダイオード(LED)の発明と実用化に貢献した業績が高く評価されました。私は、11月21日にスウェーデン大使館の受賞祝賀会で初めてお会いしました。

授賞理由は「明るくエネルギー消費の少ない白色光源を可能にした高効率な青色LEDの発明」で、「20世紀は白熱灯が照らし、21世紀はLEDが照らす」とのこと。

LEDは1960年代に赤色、次に緑色も実現しましたが、青色は遅れ、あらゆる色の光を作り出せる「光の3原色」がそろわず、「20世紀中の実現は不可能」とまでいわれていました。

その壁を破ったのが赤﨑氏と天野氏ですが、品質のよい青色LEDの材料を作るのが難しく、国内外の企業が取り組んでもうまくいかず、両氏は「窒化ガリウム」という材料を使い、明るい青色を放つのに成功しました。

赤﨑氏は、京都大学卒業後、神戸工業(現富士通テン)に入社しブラウン管の開発に従事、その後上司の有住徹弥真空管部長が名古屋大学工学部電子工学科に転出したのに伴い、有住研究室の助手に誘われ1959年から5年間新設の名古屋大学有住研究室での学究生活に入って助手、講師、助教授を務めました。1964年名古屋大学工学博士、論文の題は「Geの気相成長に関する研究」、1964年からは新設の株式会社松下電器東京研究所に移って、基礎第4研究室長や松下技研株式会社半導体部長を務め、1981年から92年まで名古屋大学工学部電子工学科教授を務め研究室を開設。最初の指導学生が天野浩氏でした。

一般消費者向けの製品は長時間安定に動作するタフな材料でなければなりません。窒化ガリウムはダイヤモンドと同じぐらい硬く加工は非常に難しいものでした。硬い基板と硬い窒化ガリウムの間に、軟らかく薄い層を緩衝材(バッファー)として入れる、というアイデアが突破口になったとのこと。材料は窒化アルミニウムを選び、軟らかい層にするため、通常の温度の半分にあたる約500度で作るよう、名古屋大の研究室の大学院生だった天野浩氏に伝えたとのことです。天野氏は、こだわりがあり、すぐには試しませんでした。こんな温度では結晶にならないと思ったようですが、あるとき電気炉の調子が悪く、温度が上がらなかったためうまくいったとのこと。低温でできた層の上に、通常の1千度で窒化ガリウムを成長させると、きれいな結晶ができました。あまりに無色透明だったので、材料を流し忘れたと思ったそうです。1985年のことでした。

 

藤原  洋

<Profile>

1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。