日本のノーベル賞科学技術について(その9)~小柴昌俊博士~
~東大退官2か月前16万年光年のニュートリノが飛来!2002年ノーベル物理学賞~ ~世界で初めて超新星爆発で発せられる自然ニュートリノを捕えた日本人!~ ~小児マヒで両手足が動かなかった少年時代を「やればできる」で克服!~
藤原洋 株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEO

2002年は、米国企業89%、私の会社IRIが11%出資、日本初の専業インターネット・データセンター会社が四苦八苦する中、とうとう米社が経営破綻し、根性で子会社化し、(株)ブロードバンドタワーに社名変更し再スタートした年でした。飛び込んで来たのが、小柴昌俊博士の「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」へのノーベル物理学賞受賞のビッグニュースでした。小柴昌俊博士は、私の京大理学部の同級生の尾高茂君(現高エネルギー加速器研究機構)が、大学院から東大の小柴研究室へ進学し、結婚式に出席した時にお会いしていたので、感激しました。

1970年、小柴博士は東大理学部教授に着任。1978年に研究仲間から、「理論的には予言されていながら観測されていない「陽子崩壊」を見つける実験装置を考えてほしい」と頼まれ、1983年、この巨大な装置「カミオカンデ」を岐阜県神岡鉱山の地下に建設しました。

直径15.6m、高さ16mのカミオカンデの水槽の中に素粒子が入ると、素粒子は水中の電子などにぶつかり微弱光を発します。その光をセンサーでとらえることができれば、素粒子のふるまいを知ることができます。完成後、陽子崩壊の現象をとらえられず、発想を変えて、1987年、大気中の素粒子「大気ニュートリノ」の検出を開始しました。

しかし、観測開始直後の1987年2月、小柴博士の東大退官の前月、信じられない幸運が訪れたのでした。それは、検出が困難な大気ニュートリノではなく、16万光年先の南半球から見える大マゼラン星雲で、383年ぶりに肉眼で見える超新星爆発がおき、大量のニュートリノが地球に降り注いだのでした。

また、世界の競争のドラマもありました。カミオカンデの構造は、小柴博士の国際学会での発表から米国の研究機関が、真似をして、IMB(Irvine-Michigan-Brookhaven)は、カミオカンデの予算(約4億円、3000tの水タンクに948本の光電子増倍管を取り付けた装置)の10倍の約40億円をかけて、オハイオ州モートン塩鉱の地下600mに7000tの実験装置で、2048本の光電子増倍管を使用しました。水量で2.3倍、光電子増倍管の数は2倍で、単純に約5倍の性能を備えたものでした。小柴博士は、諦めず、当時浜松ホトニクスの晝馬(ひるま)輝夫社長に無理を言って、IMBの10倍の検出能力のある光電子増倍管を同じ値段で作ってもらったのでした。予算は、10分の1ですが、10倍の検出性能のあるセンサーを半分、純水タンクの大きさは2.3 分の1となると、カミオカンデの検出性能は、IMBの約2倍でした。

そんな中で、1987年2月23日午前7時35分(UCT)、日本のカミオカンデが 11 個のニュートリノを捕え、飛来した方向、時刻、エネルギー分布の詳細な分析に世界で初めて成功したのでした。ところで、南半球でしか見えない超新星爆発が、北半球のカミオカンデに到達するのは、ニュートリノという素粒子は、他の物質とほとんど反応しないので、地球を貫通してくるからでした。

藤原  洋

<Profile>

1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。