日本のノーベル賞科学技術について(その2)~湯川秀樹博士~
~「万有引力」、「電磁力」につづく第3の力「強い相互作用」を予言!
藤原洋 株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEO


湯川秀樹博士

中国と日本の科学技術分野での相互協力のための日本のノーベル賞科学技術の第1弾は、湯川秀樹博士に関するお話をさせて頂きます。

私を含め、山極壽一現京大総長はじめ、多くの京大理学部入学者は、湯川秀樹(1907年- 1981年)博士に憧れて、科学者の道を志したと思われます。

湯川博士の業績は、原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる「強い相互作用」(現代物理学で知られている4つの力=「万有引力」、「電磁力」、「強い相互作用」、「弱い相互作用」のうちの1つ)の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言したことで、1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川理論の正しさが証明され、1949年日本人として初めてノーベル賞を受賞。ノーベル賞は、理論的な予言だけでは授賞対象とならず、実験や観測で確認されて初めてその対象となりますが、欧米先進国と比較して、当時の日本は、実験設備が貧弱なために理論物理学者だけが世界的大発見のチャンスがあった時代のことでした。

1907年、東京府東京市麻布区市兵衛町(現:東京都港区六本木)に地質学者・小川琢治と小雪の三男として生まれ、1908年、1歳の時に父・琢治京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都府京都市に移住。1歳から大学の他、人生の大半は京都で過ごされました。5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍の素読を習い、母方の祖父駒橘氏は、漢学の素養と洋学を学びロンドン・タイムズを購読した人物で、中国古典と洋学の素養は、湯川博士の思考の基本となったようです。


1973年、筆者が18歳の時、湯川博士に憧れた京大理学部の合格発表

1919年、京都府立京都第一中学校(現府立洛北高校)に入学、口を利かなかったため、兄弟に比べて能力を低く見られ、大学進学を諦めさせられそうな時期もあったとのこと。

1929年京都帝国大学理学部物理学科卒業、玉城嘉十郎研究室の副手、1932年、講師。1933年八木秀次博士の誘いで大阪帝国大学講師を兼務。教え子の間では、声が小さく講義は、難解だったそうです(私も、湯川博士の特別講義を受講しましたが同感です!)。この頃、大阪胃腸病院の湯川玄洋院長の次女湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となられました。

1934年中間子理論構想を発表、1935年「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(π中間子)の存在を予言し、日中戦争中であった日本人学者は、海外からは評価されませんでしたが、ソルベー会議に招かれた後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになられ、1940年学士院恩賜賞、1943年最年少で文化勲章。そして、ついに1949年にノーベル物理学賞を受賞されたのでした。これはアジア人としては作家のタゴールや物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞でした。

藤原 

<Profile>

1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。