〈連載〉 孔子の一生「論語(為政編)」と私(第3回)
~四十にして惑わず~
藤原洋 株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEO

孔子の一生「論語(為政編)」の中で書かれた四十歳というのは、「不惑」がテーマとなっています。すなわち、「四十になってあれこれと惑わなくなる」ということなのでしょうが、実際、振り返ると、「不惑」の対象が40歳になると見つかったのでした。

40歳になる頃、2つ目の5年計画のデジタル動画像研究の仕事が終了に近づいていました。そこで、普通なら、出向元のアスキーの経営陣に戻るか、あるいは、これまで注力し予想以上の成果をあげることができた、政府のMPEG動画像符号化技術の研究開発プロジェクトのキャリアを活かして、大学、政府系、大企業の研究機関のポストを見つけることの二者択一だったのでしょうが、結果的には、最大5億円まで膨らむこととなる融資は全て個人保証付きで、失敗すれば全てを失う「起業」という全く別の道を選択したのでした。これまで出逢った、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、西和彦、孫正義といったPC革命を牽引した起業家たちが、20代で起業したのに対して、明らかに遅い40代での起業でしたが、不惑の対象が明確だったため惑いはありませんでした。

冷静に考えてみると、起業には、年齢よりも、時代の変わり目に居合わせるかどうかのタイミングの方が重要なことのよう思えます。40歳になったのは、1994年ですが、この年は、日本のインターネット元年とも言われる年でした。動画像符号化の研究で、約3年間、米ベル通信研究所に滞在した1988年~91年の間に、当時米国でも研究機関だけに使用が許されていたインターネットに触れ、研究手段として、使っていたところ、90年に米国で商用化され、四年遅れで日本でも商用化されることが決まった時、惑わされることなく、これまでの経験を集約した人生は、「インターネット」の中にあると強く思いました。

結果的に二年後の1996年に42歳で、国や大企業ではなく、自分たちの資本で、東証マザーズ第一号上場企業となる、株式会社インターネット総合研究所(IRI)を創業することになるのですが、その10年以上前の85年の村井純氏との出逢いと、1年前の95年の大和田廣樹氏との出逢いが基礎となっていました。写真は、1999年12月22日の東証マザーズ第1号上場記念の時のものです。写真中央が、私と当時の山口理事長です。

その後、40代の間は(?)、インターネットの発展と共に、企業としても順調に成長を続けることができました。そして、45歳の時に、孫正義氏との連携によって生まれた日本初の専業型インターネット・データセンター企業、グローバルセンタージャパンは、現在のブロードバンドタワーへと継承され、ヤフージャパンを最大顧客としてヤフーの成長と共に発展することができ、2011年の株主総会で私の専任代表取締役就任後、村井氏も大和田氏も非常勤取締役として応援してくれています。

 

 

藤原 

<Profile>

1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。