〈連載〉 孔子の一生「論語(為政編)」と私(第2回)
~三十にして立つ~
藤原洋 株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEO

孔子の一生「論語(為政編)」の中で書かれた三十歳というのは、「自立」がテーマとなっています。その意味で、私にとっての「自立」とは、コンピュータ産業におけるPCへの転換というパラダイムシフトと、情報メディア産業におけるアナログからデジタルへの転換というパラダイムシフトとが一気に押し寄せてきた時代の変化に対応して自分自身のライフワークとなるテーマを見つけることでした。

私が、三十歳になる少し前の1980年代の半ばは、大型コンピュータからパーソナルコンピュータへの世代交代が起ころうとしている時でした。この頃、最も大きな転機となったのは、同年代(私より一歳下)の「パソコンの天才西和彦(アスキーの創業者で日本のPC産業の産みの親)」に出逢ったことでした。その結果アスキーへ転職し、西さんと仕事をする中で、ビジネスパートナーのマイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツ(一歳下)やアップル創業者の故スティーブ・ジョブズ(同い年)、当時はPCのソフトウェア流通事業を立ち上げたソフトバンク創業者の孫正義氏(三歳下)等と出逢いがありました。また、次なる出逢いは、当時東工大助手だった同い年の村井純氏が、日本人として、たった一人でインターネットの世界へ飛び込んでいった頃でした。彼との出逢いは、私の初めての翻訳本『マルチメディアLAN構築の実際』(トーマス・マドロン著、監訳:村井純、翻訳:藤原洋、1986年5月アスキー刊)を契機とした、前年の85年のことでしたが、十年以上後に人生の転機に関わる重要人物となるのでした。

私が、三十歳の頃は、既に述べたように、同年代でデジタル情報革命の一翼を担うパソコン革命の旗手たちの起業家精神に触れる貴重な時期でした。大組織に依存する人生を歩むのではなく、小さくとも、自分自身の存在が、新たな企業や組織を創り、その新たな企業や組織が、産業革命の担い手となっていくことこそが自分自身の進む道だと強く思ったのが、私にとっての三十歳でした。

私自身が研究開発の中心となり、三十二歳の時に始め、約十年間にわたって、政府と出資社の勧誘による研究会社の設立、資金調達、人材集め、海外共同研究先の発掘等、ゼロから完成まで深く関わった「MPEG関連のデジタル動画像符号化技術の産官学連携プロジェクト」は、「自立」への道だったように思います。資本は、国や大企業から出してもらうという依存した環境での経験でしかなかったのですが、世界初の仕事でもあり、日本の放送方式のデジタル放送方式への転換でもあり、私なりの仕事としての「自立」をした時期だったのではないかと思っています。三十代に訪れる「自立」というテーマは、孔子の時代から二千五百年を経過した現代においても、各々の異なる人生における、異なる道を自分で見つける、共通のテーマなのだと思います。

写真は、政府出資の研究会社(GCT)の仲間との宴席で、左:正村和由さん(第2研究室長:大倉電気から出向)、中:藤原洋(取締役研究開発部長、アスキーから出向)、右:丸山優徳さん(第3研究室長、日立製作所から出向)で私が三十七歳の時です。

藤原 

<Profile

1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。