〈連載〉 北京紀行(その2)
~北京大学発祥の地・北京大学紅楼から見た現代中国とは?~

北京大学での講義に先立って北京大学のルーツを知るために北京大学旧校舎である「北京大学紅楼」を訪れました。ここは中国現代化運動である「五四運動」が起こった拠点でもあり、現在は、「北京新文化運動記念館」となっています。今回は、新文化運動記念館での展示内容をお伝えします。

 

【北京大学とは?】

国家重点最高峰の大学(工学系では清華大学の評価が高い)。大学評価の「世界大学ランキング 2012-2013」では50位以内で中国内トップ。2002年より日本の東京大学との間で連絡事務所を設置しており、「中国の東大」的な位置づけの大学と言えます。

 

【北京大学の歴史】

1898年 清朝政府により、京師大学堂として、北京に設立。

1912年 辛亥革命後北京大学に名称変更。

*辛亥革命:「満族駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」を理念とした清王朝による封建社会から新たな共和国への革命。

*私見:この封建社会の崩壊プロセスは、日本とは大きく異なります。清王朝は、1840年のアヘン戦争以来、欧米列強の干渉を受けますが、多数を占める漢民族ではなく満州民族による王朝であったため王朝を維持した上での(日本の明治維新型の)清王朝の中からの近代化に失敗。反清運動が主流となったと思われます。

1917年 蔡元培が北京大学の校長就任、陳独秀、魯迅、胡適らを教授に迎え学風が一新され、教授学生による五四運動(反帝国主義運動)の拠点へ。

1937年 日中戦争により、清華大学南開大学と共に、長沙(中国南部の湖南省)に移転し、長沙臨時大学を構成。

1938年 長沙に日本軍の勢力が接近し、昆明(中国南端の雲南省)に再移転し国立西南連合大学と改称。

*日本管理下の別の「北京大学」が1937~1945年存在したとされる。これは、汪兆銘(清王朝留学生として日本で学び辛亥革命運動に参加した後、日本の支援を受けた新政府を樹立)政権の下で同上の北京大学の校舎移転に従わなかった教授らで構成。

1945年 対日戦争終結で北京大学は北京に戻る。

1952年 中華人民共和国成立に伴い総合大学として位置付け。

1966年 構内に掲示された反革命(資本主義化)批判の壁新聞掲載を契機に文化大革命が起こり約半分の教授が北京大学を去ることになる。76年の毛沢東の死去後、鄧小平改革による市場経済の導入で北京大学の学風も市場開放路線へと向かう。

2002年 東京大学、理化学研究所間で連絡事務所設置。

2004年 ロンドンスクールオブエコノミクス(LSE)とパートナーシップ締結。

 

【北京新文化記念館の展示内容】

●北京大学の現代化の父=蔡元培:

蔡元培学長(1986~1940年、任期1916~27年、フランス留学を通じてフランス革命人権女性の権利尊重の研究者)の銅像、学長任命書、肖像写真。

●蔡元培学長時代の様々な活動:北京大学新聞会新聞。新聞会初代メンバーの写真。北京大学最初の女子学生たちの写真(1920 年)。科学と電信の重要性を説いた書面。

●中国共産党創立者初代総書記=陳独秀:

陳独秀(1879~1942年、ジャーナリストとして活躍し、1917年北京大学文科長)の肖像写真。銅像。『新青年』創刊号。

西洋主義者から国民党へ、さらに転じて共産党を創立しますが、内でも強い意見を主張したようで、彼の生涯は民族主義者(1900‐12)、民主主義者(1913‐20)、社会主義者(1921‐28)、さらにトロツキー主義者(1929‐)の4期に分かれるとされています。

中国共産党は、1921年7月に、コミンテルン(1919年から1943年まで存在した共産主義政党による国際組織)との連携により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されました。その時の陳独秀による直筆の手紙と中国共産党宣言と原典とも言うべきカールマルクスの1848年の共産党宣言の当時の表紙の写真がありました。

陳独秀は、主張と失望を繰り返し、何度も逮捕されて、最終的には共産党を除名され、静かな余生を送ったようです。でも、ここに銅像があるということは、歴史上の人物として再評価されているようです。日本には、1901年に清朝留学生として成城学校に留学したとのこと。直筆も展示されていました。

毛沢東(1893~1976年)は、1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業後、1919年の五四運動期に、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)と共に中華民国北京政府の首都である北京へ上京。楊の推薦で、北京大学の図書館にて館長の李大釗の下で司書補として勤めました。『新青年』の熱心な寄稿者となりました。また、毛沢東は、同大学の聴講生となり、陳独秀、胡適、そして銭玄同等のいくつかの講義やセミナーに出席し、中国共産党の創立メンバーとなりますが、ここから徐々に末席からトップに上り詰めることとなるのでした。

 

藤原 
<Profile>
1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイビーエム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。