〈連載〉黒船来航と洋学⑤
近代日本語の形成
加藤 祐三 前都留文科大学長

英語学習の必要性が高まる。だが英和・和英辞典がない。そこで活用されたのが、R.Morrison,"Chinese English-Dictionary"華英字典(1815‐23)やW.Lobsheid," English-Chinese Dictionary"英華字典(1866-69、香港)等である(索引として英華には華英が、華英には英華がつく)。後者は大量に輸入され、漢文で育った人たちが「漢」を「和」に置き換えて英語を学んだ。海賊版らしい羅布存徳原著・井上哲次郎訂増『訂増英華字典』も刊行された。

しかし華英・英華辞典語では不十分と悟った日本の学者たちは、優れた造語力を発揮し、新たな訳語(主に2字漢語)を創出する。その最初の体系的な辞書が、柴田昌吉・子安峻『附音挿図 英和字彙』(明治6、1873年)であり、島田豊纂訳『和訳英字纂』(明治21、1888年)でほぼ完成する。

新造漢語は3種類に分類できる。

ア)江戸時代から使われている漢語:場所、大本営、復習、武士道、身分、方針、保健、交通、認可、浪人、体験…

イ)中国古典の漢語に新しい意味を付したもの:民主、革命、文化、文明、法律、自由、政治、進歩、権利、階級、社会、進歩、手段、主席、思想…

ウ)まったく新しい漢字の組合せ:美学、物質、化学、幹部、生物学、目的、左翼、生産力、新聞、財閥、概念、伝染病、反動、法学、政府、哲学…

このうちイ)についてはすこし説明が要る。「民主」はもと「民の主=君主」、これを「民=主人」の意味に逆転させた。「革命」は易姓革命(=王朝交替)を意味したが、これをrevolutionの訳語とした。現代日本人になじみの意味は逆転後の後者である。

幕末維新期は、欧米文化を吸収しようと、訳語として大量の2字漢語が創出された時代である。もしこれらの新造漢語がなく、外来語をカタカナや英字で表記していたとしたら、我々の言語や思考はとても曖昧であったに違いない。

新造漢語は現代日本語の骨格として生きているばかりではない。日本より遅れて19世紀末、漢字の本家である中国でもイギリス留学から帰国した厳復が社会進化論の翻訳(『天演論』1898年刊)等を通じて欧米語の訳語を創生した。だが定着せず、代わりに来日清国(中国)留学生が和製漢語を逆輸入し、いまも現代中国語(民主、革命、文化、階級等)に生きている。

幕末・明治期に作られた「創造的発展」の1つ、新造漢語があったからこそ、外来文化を的確に吸収し、広く体系的に発展させることができた。いま大学等の高等教育を母語の日本語で行うことができるのもこのおかげであり、世界では少数の例外である。あらためて幕末明治期の知識人の努力と新造漢語の意義を評価したい。(おわり)

(都留文科大学長ブログ掲載「黒船来航と洋学」を補正、5回に分載)


『附音挿図 英和字彙』附音挿図は発音と図入りの意味


日本で刊行された『訂増英華字典』 羅布存徳はロプシャイド

加藤 祐三

<Profile>

三渓園園長(横浜)、前都留文科大学長、元横浜市立大学長。1936年(昭和11)年東京生まれ。東京大学大学院人文科学研究科東洋史学専攻博士課程中退。専門は歴史学(アジア史、文明史、文化史)。『現代中国を見る眼』(1981年、講談社現代新書)、『東アジアの近代』(1985年、講談社)、『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)など著書多数。