〈連載〉黒船来航と洋学②
2度目の来航と横浜応接
加藤 祐三 前都留文科大学長

ペリー提督はアメリカ東部の軍港を出航して大西洋を渡り、アフリカ南端からインド洋に入り、中国で思わぬ時間をとられたが、沖縄・小笠原を経由、約7ヶ月半後に浦賀(神奈川県)に現われる。蒸気船の石炭積載量と航行能力の関係から、まだ貯炭所がない北太平洋は横断不能な「空白」であった。

1853年7月8日、浦賀沖に停泊した艦隊サスケハナ号に向けて、浦賀奉行所の船からオランダ通詞の堀達之助が英語で呼びかけた。"I can speak Dutch"(当方はオランダ語が話せる)。すぐに艦上に招かれ、与力の中島三郎助とペリー副官コンティがオランダ語を介して話し合いに入る。


久里浜での軍楽隊の行進 手と足を左右対照に前へ出す現代風の歩き方を初めて見る。横浜市中央図書館蔵

オランダ通詞とは、長崎奉行の下、代々世襲でオランダ語の4技能(読み・書き・聞き・話す)を完璧に修得したエリート集団である。長崎のオランダ商館との対応(貿易と外交)に当たり、その一部が異国船の来航が想定される浦賀に配置されていた。

老中首座の阿部正弘(内閣総理大臣相当)の率いる幕閣は、軍事力の「誇示」とその「発動」の違いと、鎖国政策で外洋船(軍艦)を持たない現状を冷静に判断し、積極的に対話外交を模索した。ペリーが大統領国書の受理を求めると、慎重審議のうえ、急ぎ久里浜(浦賀奉行所のすぐ南)に応接所を建設し、受理した。日本人絵師が軍楽隊に先導される「総大将」(ペリー)の行進を描いている。

ペリー艦隊は、大統領国書への回答期限を来春と言い残して、9日間で日本を去る。そして2度目の来航は翌1854年2月、浦賀沖を過ぎ、江戸湾内海への入り口(もっとも狭い観音崎と富津の間)を突破、横浜沖まで進み、錨を下ろした。計9隻の大艦隊(世界最大の蒸気軍艦3隻を含む)である。

双方で協議のすえ、応接場は戸数90ほどの横浜村(現在の横浜大桟橋近く)と決め、大広間、内室、賄所等を備えた100畳ほどの木造平屋を急造する。


横浜応接 手前右端が林大学頭、その対面がペリー。左奥で画帳を広げるのが画家ハイネで、多くの記録画を残した。横浜市中央図書館蔵

1854年3月8日、与力の香山栄左衛門らが旗艦までペリー一行を迎えに行った。上陸したアメリカ将兵は446名と日本側が記録する。大広間には、林大学頭(はやしだいがくのかみ、旗本養成の唯一の大学・昌平校塾頭)を筆頭に5名が正座して待つ。背後には、大刀を捧げ持つ家臣が座す。その正面に軍服にサーベルとピストルで正装したペリーと副官など5名が対座し、護衛するように多数の将校らも着席した。

5日前、林は急ぎ登城して阿部老中から新たな指示を受けていた。

(つづく)

(都留文科大学長ブログ掲載「黒船来航と洋学」を補正、5回に分載)