荻田 敏宏 株式会社ホテルオークラ代表取締役社長
中国に愛されるホテル経営を目指す

 

現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』に実業家として登場している旧大倉財閥の創設者・大倉喜八郎はホテルオークラ初代会長・大倉喜七郎の父であり、孫文の支援者として中国でも有名である。日本を代表するホテル事業会社であるホテルオークラは2024年、上海に高級リゾートホテルを開業する予定だ。先ごろ、ホテルオークラ本社に荻田敏宏代表取締役社長を訪ね、経営理念と強み、中国との関わりなどについて伺った。(聞き手は本誌編集長 蒋豊)

 

出迎え三分、見送り七分

―― ホテルオークラは日本の老舗ホテルとして、「ホテル御三家」と称されていることは中国でも有名です。御社の事業の特徴と強みについて教えて下さい。

荻田 旧大倉財閥は商社、建設業、鉱工業が主なビジネスで、それに加え戦前よりホテル事業にも参画していました。しかし、戦後の財閥の解体、公職追放で、当時の大倉財閥のトップだった大倉喜七郎は、帝国ホテルの経営からも手を引かざるを得なくなりました。

それでも戦後、大倉喜七郎はホテル経営に対する熱意を持ち続け、日本の高度成長、1964年の東京オリンピック開催という経済環境の中で、日本に世界の賓客をもてなすホテルをつくろうと決意します。そこで、ホテル建設用地に大倉邸の敷地を当てることにし、1958年、当社が設立されました。

ホテルオークラがオープンしたのは前回東京オリンピックの2年前1962年5月です。オープン以降、IMF(国際通貨基金)などの国際会議の開催、昭和天皇皇后両陛下をお迎えしての晩餐会の開催、そしてアメリカ大統領や英国のチャールズ皇太子・ダイアナ妃をはじめ、さまざまな世界の賓客の接遇を担ってきました。

ホテルオークラグループの経営理念は「親切と和」です。お客様はもちろんのこと、従業員同士も親切に徹して運営していく中で、和をもってチームワークを大事にするという意味です。「和を以て貴しとなす」という言葉がありますが、それを具体的に実践しています。

また、「Best A.C.S. (最高の施設、最高の料理、最高のサービス)」を提供することを運営哲学に掲げホテル運営を行っています。日本特有のおもてなしの精神に根差したホスピタリティと、商品である料理飲料に併せて、立地する地域のお客様に愛されるホテルを目指して運営していることが当社の強みだと思っています。

当社の人材教育の中で、「お出迎え三分、お見送り七分」という言葉があります。お出迎え以上にお見送りを大切にしなさいということです。本来なら、お出迎え、お見送りともに100%の万全な体制で接遇することが理想であり、そのように実践すべきと心得ておりますが、一般的な接遇では、ついついお出迎えに重点を置き、お見送りが疎かになってしまいがち、即ち、お出迎え八分でお見送り二分ぐらいの接遇になってしまうということが見受けられます。この「お出迎え三分、お見送り七分」という言葉は、特にお見送りが大事であるということを強調するためにあります。

言い換えれば、ビジネスでは、物を買ってもらったら終わりという関係性が一般的です。しかし、お客様に来ていただくこと、またはお客様に商品を買っていただいたこと、これが実はビジネスの始まりなのだと考えています。

また、「紙一重の差」という言葉も教育で用いられております。サービスというのは例えば99と100でわずかな差なのですが、これが大きな違いにつながるという思想を持つことが大事だと社員に教えています。このような強みを、今ある事業、それから新しい事業に活かしていきたいと思っています。

 

孫文と大倉喜八郎

―― 1905年、現The Okura Tokyoにおいて、孫文を総理とする中国同盟会が結成されました。「中国革命の故郷」として有名です。これまでの100年間の中国との関りについて、お聞かせください。

荻田 旧大倉財閥創設者の大倉喜八郎は、現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』に実業家として登場していますが、主人公の渋沢栄一、三井物産初代社長の益田孝、古河財閥創始者の古河市兵衛ら主要な財閥とともにさまざまな事業を興しました。

中国との関りで申し上げますと、1872年に喜八郎は日本の民間人として初めて欧米を視察しています。その際に、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らとロンドンやパリで親交を深め、帰国後、1873年に日本初の貿易会社を設立しました。その翌1874年に日本初の海外支店をロンドンに設立し、そして、1883年に上海支店、1887年に天津支店を開設して、中国でビジネス展開します。

喜八郎は、戦前のあらゆる財閥の中で最も主導的に中国に投資した人物だと言えます。遼寧省・本渓湖の製鉄事業等25事業に直接投資した他、借款など合わせ、当時の金額で約4000万円を中国に投資しています。これは現在の価値でいうと5000~6000億円に相当します。

孫文との関りで申し上げますと、1897年に日本における孫文の支援者だった宮崎滔天の紹介で、喜八郎は初めて孫文に面会しています。この時に、辛亥革命の支援を求められたのですが、喜八郎は孫文に、日本政府との関係もあるため自分の名前を出さずに資金援助することを約束しました。

2年後の1899年7月、孫文らが支援したフィリピン独立運動に際して、喜八郎も支援をするのですが、支援物資を乗せた船が途中で難破し、提供することができませんでした。翌1900年7月に孫文と面会したとき、その直前の恵州蜂起に支援できなかったことを深謝しました。

その後、1905年8月20日、喜八郎邸(現The Okura Tokyo)で、孫文を総理として、清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った「中国同盟会」が結成されました。

1911年11月、辛亥革命勃発直後の革命政府に当時の金額で300万円の資金提供を行ったという記録が残っており、これは14年2月に返済されています。

そして、1913年3月に、日中合弁中国興業設立発起人会が開かれ、孫文が総裁、喜八郎は相談役に就任しています。このように見ていきますと、喜八郎は、生涯で3回程度しか会っていないにも関わらず、孫文との関係は非常に深かったと言えるのではないでしょうか。

ちなみに、孫文以外にも中国の要人との親交が深かったようでして、喜八郎は1928年4月に他界するのですが、その葬儀の際に、馮玉祥 張作霖、段祺瑞、蔣介石、徐世昌、張学良など、中国の名だたる要人からの弔旗が91本出されたという記録が残されています。

 

中国市場は成長から成熟へ

―― 御社はすでに、北京、上海、広州など、中国でビジネスを展開されています。そうした中、2024年、上海に高級リゾートホテルを開業するとの報道がありました。現在はコロナ禍でもありますが、中国市場をどのように見ていますか。

荻田 20年ほど前のことですが、ふと地図帳を開き、中国を見たら、「100万人都市がこんなにあるのか」と思いまして、数えてみたら53ありました。日本は12でしたから、日本の4倍から5倍も100万人都市が中国にはある。もっとも中国は日本の国土の25倍、人口は11倍ですから、そう考えれば当たり前なのですが、長期的な潜在市場として中国は大きいとその当時思った次第です。

それから20年経って、所得も7倍ほどに増えている。所得水準も大きく伸びていて、当時と比べて、高級ホテルに対する需要も飛躍的に伸びていると認識しています。

他方、供給についても相当伸びていて、一部地域では供給過多になっています。所得成長が今後も続けば需要も伸びます。一部の需給がミスマッチなところは、短期または中期的に改善していくのではないかと思います。20年前と比べて、中国市場は成長から成熟の段階になりつつあると見ています。

 

各都市での相乗効果を図る

―― 中国では現在高級リゾートの需要が高まりつつありますが、今後どのようにビジネス展開していきますか。

荻田 まず、当社グループのホテルの約8割はシティホテルで、これまで都市型ホテルに力を入れてきました。中国でも10ホテルを展開していますが、マカオ以外は全てシティホテルです。

人口100万人規模の都市全てを網羅するまではいきませんが、人口500万人規模以上の都市で、まだ展開していないところに出店していきたいということが一つあります。

シティホテルは、基本的に平日はビジネス利用がメインですが、週末は観光客が増えます。地域のお客様に愛され、周辺の需要を掘り起こすためにも、ホテルがアーバンリゾートとして機能するようなことを考えていきたいと思っています。

立地している都市のホテル周辺のお客様の囲い込み、ファン作りをすることによって、日本への渡航者の増加や当社グループのホテルの利用から、「イントラアジアビジネス」、「イントラチャイナ」など、各都市での相乗効果を図れるよう取り組んでいきたいと考えています。