大櫛 顕也 株式会社ニチレイ代表取締役社長日本冷凍食品協会会長
中日経済交流の新たなモデルを確立

2020年9月、『日本経済新聞』で、ある日本人社長が課長時代を振り返った記事を目にした。彼は私と同じく九州大学を卒業し、1995年、中国・山東省での合弁事業の責任者に自ら願い出て、一年のうち200日以上を現地で過ごし、日本の事情を全く知らず、日本語も話せない中国人従業員と共にニチレイの中国事業を立ち上げ、中国のコールドチェーンの発展と整備に尽力した。日本の若者の内向き志向が言われて久しいが、ニチレイの大櫛顕也社長の経歴は示唆に富むものであり、そこから中国に対する熱い思いを読み取ることもできる。


撮影/本誌記者 原田繁

日本のコールドチェーンのビジネスモデルを確立

—— 日本で冷凍事業が始まったのは1920年で、1987年には日本の家庭における電子レンジの普及率は50%を超え、冷凍食品が多くの家庭で消費されるようになりました。貴社は、日本の冷凍食品及びコールドチェーン分野では国内最大手です。社長に就任されてより、持続的な利益成長によって「100年続く企業」を目標に掲げておられますが、持続的発展を可能にしている貴社の最大の強みについて、お聞かせください。

大櫛 規模の面では、冷凍食品は食品市場で優勢にあります。冷凍食品は特別な冷凍温度と精選された高品質の原材料を必要とし、BtoCからBtoBまで、お客様のニーズに応じて商品の研究開発や企画を行い、商品を市場に投入します。

商品を発売したら、工場は供給を担保し、出来る限り早く顧客に届けなければなりません。こうした産業チェーンにおいては、関係する全ての分野が不可欠で、完全な技術サポートが必要です。そして、この産業モデルこそ、ニチレイが75年の努力の末に、日本で築き完成させてきたものです。75年かけて、我々は確固たる顧客基盤を築いてきました。

経験と顧客基盤、更には完成された産業チェーンがあって、ニチレイは川上から川下まで全てのプロセスで他社と繋がり、新しいプロジェクトを開拓することができるのです。そういった点が当社の強みかと思います。

中国での成功の鍵は現地企業との協力

—— 今年はコロナ禍の影響で、外食の自粛を余儀なくされ、親戚や友人ともなかなか会えないなど、国民の生活は一変しました。コロナ禍を克服したとしても、以前の状況に戻すことは難しいと考えます。これは全ての飲食関連企業にとって長期的な課題です。ニチレイでは方針の転換はあったのでしょうか。また、今後、何らかの調整はお考えですか。

大櫛 日本人の生活に冷凍食品は欠かせないものになっていますので、我々は自分たちの仕事に使命感をもっています。この度のコロナ禍は人々の消費スタイル、生活様式を大きく変化させ、働き方改革をもたらしました。しかもそれは急激なものでした。

当社も、コロナ禍後に人々の生活様式や消費スタイルが以前の状態に戻ることは難しいと考えています。しかし、新たな生活様式は新たなニーズと新たな市場をもたらします。如何に早く、消費者の最新のニーズに応える商品とサービスを提供できるかが鍵となります。

日本の人口は2008年から減少へと転じ、2050年から2060年の間に1億人を割ることが予想されています。冷凍食品、コールドチェーン市場に対する需要は年々増加の傾向にありますが、人口の減少傾向は軽視できません。今後国内需要は減少の一途を辿るでしょう。一方で、世界の人口は今後3~40年の間に70億人から90億人になると推計されており、海外市場にはまだまだ成長の余地があります。特に中国です。私が中国に赴任していた時、中国の人口は10億人超でしたが、現在は14億人です。発展と変化を続ける世界最大の市場は多くの可能性を秘めていて、とても魅力的です。

今後、アメリカ、中国、ヨーロッパの三大市場が我々の開発の焦点であり、三つの市場にはそれぞれの位置付けがあります。ヨーロッパの市場は比較的成熟しており、中国の市場は絶えず変化しています。アメリカの市場は人工肉等の登場によって新たな段階に入りました。従って、我々は絶えず技術を向上させ、認識を新たにしていかなければ、競争力を高めていくことはできません。

中国で我々が最も大事にしているのは、現地企業との信頼関係です。当初は自分たちの力で出来ると思っていました。ところが、実践をしていくうちに、現地企業との相互協力とお互いの信頼関係の重要性に気付いたのです。それらがあって初めて、真に中国に根を下ろすことができるのです。

中国で出来て日本では出来ない事

—— 『日本経済新聞』の記事でも拝見しましたが、大櫛社長は1995年に市場を開拓するために中国に赴任され、日本人たった二人で、企業の合弁、商品の開発、輸出を手掛け、今日では山東、上海等で冷凍生鮮品、低温物流、バイオサイエンス等の事業を展開されています。中国での歳月を振り返って、最も印象に残ったことは何でしょうか。若者の内向き志向が言われて久しいですが、中国での経験はご自身の人生にどのような影響を与えていますか。

大櫛 1988年に設立された上海日冷食品有限公司は、当初、日本向けに餃子、ロールキャベツなどを生産し、評判も良かったのですが、コスト上昇でモノづくりとして採算が合わなくなり、生産拠点としての機能は2010年頃までです。その後、上海での事業は現地パートナーと一緒になって、モノ作りだけではなく、企画なども行う開発営業をメインにしています。山東日冷食品有限公司は1993年に山東省の煙台開発区に合弁で立ち上げました。1995年から2000年は中国での事業展開の初期に当たりますが、当時は本当に大変で、私は年間200日以上を中国で過ごし、中国に滞在した時間を合わせると7年になります。

この25年で、中国は大きく変わりました。食習慣を例に挙げれば、1995年前後は保守的で、あまり他国・地域の食品を受け入れることはありませんでした。ところが、ここ数年は全く異なります。消費される食品は豊富で多彩になり、世界各地の美食も見られます。更に、食品の安全性を重視するようになりました。

最も印象的で忘れられないのは、中国人従業員たちと打ち解けるまでの最初の二年間です。当時、中国と日本の衛生習慣や働き方は大きく異なっていましたので、基礎的な指導から始める必要がありました。インターネットは今ほど普及しておらず、中国の若者は知識欲が旺盛で、時間さえあれば「これはどういう意味ですか?」と尋ねてきました。私は毎回日本から教材や説明書を取り寄せ、夜、食堂で日本語を教えました。カラオケにも行き、共に学び、食事をし、歌も歌いました。彼らは皆、学んだことを海綿のように吸収し、私に通訳が必要になると、日本語を使って仕事や設備の話をしてくれました。

歴史観や価値観が異なっても、お互いを認め学び合うことで、団結と協力が生まれます。日本ではどんなに考えても出来なかった事が、中国では、皆の力や人脈、利用できる全てのことを動員して達成できるのです。しかも、短期間で達成してしまうのです。そんなことを何度も経験し、とてもエキサイティングな7年間でした。

島国の日本で満足していると、「井の中の蛙、大海を知らず」になってしまいます。私は30代前半で中国に行きましたが、そのことはその後の人生に大きく影響しています。異なる文化的背景や価値観をもつ人と共に仕事をし、新たに事業を始める際の助けになっています。私は人と接する際、相手がどの国、どの都市の人なのかを気にすることはありません。そんなことは全く重要ではありません。

取材後記

取材を終えても、大櫛社長の数々の言葉が繰り返し頭の中でこだましていた。氏は新時代の中日経済交流の開拓者であり、自ら中日合弁企業の新たなモデルを打ち立てた。氏は中国の企業と従業員を日本に受け入れると同時に、日本の冷凍食品会社が中国で利益を得られるようにしたのである。このことは、日本企業が海外で更なる発展を望むのであれば、「中国から離れる」のではなく、「中国を受け入れる」べきことを教えてくれている。