小坂 哲瑯 日比谷松本楼社長
中日友好の流れとともに―創業111年の重み

松本楼には2つの精神の系譜がある。1つは東京の中央に位置する日比谷公園にレストランを開いた小坂梅吉氏から現社長の小坂哲瑯氏へと連なる不屈と感謝の系譜であり、もう1つは中国の孫文を支援した梅屋庄吉氏から小坂社長の奥様に連なるロマンと友好の系譜である。8月下旬、創業111年目を迎えた日比谷松本楼に小坂社長を訪ね、中日友好への思いなどをうかがった。(聞き手は本誌編集長 蒋豊)

「君ハ兵ヲ挙ゲヨ、ワレハ財ヲ挙ゲテ支援ス」

―― 松本楼と梅屋庄吉氏とのご縁について教えてください。

小坂 実は、孫文先生の「盟友」である梅屋庄吉は妻の祖父にあたる人物です。不思議なご縁なのです。梅屋は私の祖父が開業した松本楼の得意客でした。妻の父母も中国に招待され、晩年の宋慶齢先生にも会っているのですが、孫文先生と梅屋の残した大切な史料を私と妻が受け継いだのです。

孫文先生は中国の近代化の原点といわれる1911年の辛亥革命で有名ですが、1895年に英国人医学者ジェームス・カントリー博士の紹介で、香港の梅屋が経営する写真館で梅屋と初めて出会います。孫文先生29歳、梅屋27歳の時でした。

梅屋は長崎の出身で貿易商の息子でした。若い時から頻繁に上海に行っていました。東京に行くよりも上海のほうが近いですからね。そして子どものころから、中国の民衆が欧米列強に虐げられているのを目の当たりにし、梅屋はアジア人としての気概に燃えていました。

そして、二人は意気投合するのです。その時に梅屋が孫文先生に言った有名な言葉が「君ハ兵ヲ挙ゲヨ、ワレハ財ヲ挙ゲテ支援ス」です。男と男の約束でした。以来梅屋は生涯この「盟約」を貫きます。

1915年に孫文先生と宋慶齢先生は梅屋邸で結婚しました。2人の結婚を物心両面で応援したのが梅屋夫妻でした。宋慶齢先生は容姿端麗でピアノを愛し、皆を和ませました。現在、松本楼の1階に展示されている宋慶齢先生愛用のピアノは、ヤマハが作った国産最古のピアノです。

胡錦涛主席が記帳「中日友好 世世代代」

―― 松本楼と中日友好の歴史について教えてください。

小坂 松本楼にはこれまで楊潔?先生をはじめ武大偉先生、王毅先生、そして現職の程永華大使をはじめ歴代の駐日中国大使等々、大勢の要人がお見えになっております。

特筆すべきは、2008年5月6日に、当時の福田康夫首相ご夫妻と中国の胡錦涛国家主席の夕食会が松本楼で開かれたことです。実は、福田首相のご両親、福田赳夫先生ご夫妻が80年近く前、結婚式を挙げられたのが松本楼でした。

この時、私と娘にとって大切なことがありました。会食に先立って、両首脳に梅屋と孫文先生の交流に関する史料を見ていただけた事です。松本楼の2階に、孫文先生が梅屋に贈った書や写真などをはじめ、数多くの辛亥革命時の重要な資料を展示し、娘(文乃)が丁寧にご説明しました。胡錦涛主席は、それを熱心に聞いてくださり「中日友好 世世代代」と記帳されました。

松本楼の今後の100年

―― 松本楼は本年創業111年目を迎えられましたが、次の100年をどのようにお考えですか。

小坂 これは非常に大切なことです。日本では巷間“企業30年説”とよく言われます。此れは企業を永年続けてゆく時、企業内部の諸問題の外に解決不能な大きな災害をもたらす外的諸現象が惹起してくる可能性があるからです。私どもの店は僅か111年の中で4回に亘って再起不能と思われる大災害に遭遇しております。

その1つは1923年の関東大震災です。祖父の時代ですが我が店は木造建てでしたので全焼し潰滅しました。2つ目は1929年の世界的大恐慌の時で、殆んどの会社が大損害を被りました。3つ目は第二次世界大戦での敗戦で東京の殆んど焼け野原になりました。

そして、1971年11月19日、沖縄の返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し、そのなかで過激派学生の投じた火炎瓶が当店を直撃し、全焼してしまいました。然し、大変有難い事にその都度各地からの暖かい励ましに支えられまして、何とか歴史を絶やす事無く今日に至っております。それほど歴史を積み重ねてゆくことは大変な事なのです。

長い歴史というのは大変な重みと思われます。今後松本楼は一老舗企業として、長く困難な此の歴史を積み重ねていく為には、“心の経営”即ち“心のこもったおもてなし”を企業の精神的骨幹と心得て、日夜“切磋琢磨してゆく事”が肝要と、思っております。

長い歴史の中で見ていくこと

―― 現在の中日関係はどのように改善すべきでしょうか。

小坂 私は単なる一民間人であり、あまり重要な発言は厳に慎むべきと考えます。然しながら、梅屋史料を引き継ぎ、梅屋が孫文先生の辛亥革命に対して私心無く、物心両面に亘って協力を尽した崇高なる行為を慮る時、其の本質的な精神は正に「日中友好」にあったと思います。

その為には両国が互いに相手を尊重し合う、即ち「相互尊重」こそが大変重要な事、と愚考しております。

顔や言葉、思想信条など、人はみな、それぞれ違います。大事なことは皆、同じ人間だということです。人間はお互いに助け合うべきです。争って何が残りますか、憎悪しか残りません。人間はもっと賢くならなければいけません。皆がお互いの立場を尊重することが最も大切だと思います。

我が家には受け継がれてきた梅屋の史料をきちんと保存するために、亡くなった妻が作ったささやかな史料室があります。妻は生前、こう話しました。「これはおばあちゃんと梅屋がやったことだが、そうではない、日本人がやったことです。このことは日中にとって大きな懸け橋になると信じています。両国は隣同士ではないですか」と。

日中両国には二千年、三千年の交流の歴史があります。今は一時的に日中関係が乱れていますが、長い歴史の中では一現象に過ぎません。大義に立ち返り、何が大事なことなのかについて取り組んでもらいたい。歴史の眼で見れば、あと100年もすれば、なぜあの時このようなことで争っていたのか、ということになるのではないでしょうか。すべては過去の歴史が物語っています。(撮影/本誌記者 邢熠)