植木 義晴 日本航空株式会社社長
日中間に「空の友好の架け橋」を
日中航空定期便路線開設40周年を迎え

第二次世界大戦後の日本は満身創痍であった。再び雄飛するためには自前の航空会社を設立して世界とつながることが急務であり、1951年8月、時運に乗じて日本航空株式会社(JAL)は誕生した。1954年2月には、東京~サンフランシスコの路線をスタートさせ、国際線を持つ航空会社となった。JALはかつて「日本株式会社」の戦後の経済繁栄の象徴とされた。中国国際航空とともに最初に中日定期航空路線を就航させ、その後も中日路線に多くの定期便を持ち、両国に沢山の旅客を輸送した航空会社であり、40年来、中日間の空の架け橋としての役割を果たしてきた。しかし、2010年、JALはさまざまな要因によって経営破綻した。だが、大方の予想を裏切って、経営破綻から僅か2年8カ月後に株式市場への再上場を果たした。どのような戦略によって再生を果たしたのであろうか。先日、JAL本社を訪れ、初めてのパイロット出身の社長である植木義晴氏にインタビューを行った。

日中民間交流が会社の発展を支える

―― 現在、中日関係は厳しい状況にありますが、日本の航空市場に何か影響を及ぼしていますか?

植木 1972年の日中国交正常化の際、当時の田中角栄総理は当社の飛行機で日中間を往復されました。これは私たちにとって大変光栄なことでした。

2年後の1974年、当社は日本の航空会社として初めて中国路線の定期便を就航させました。最初は週2便、そのうち1路線は東京から北京へ飛び、さらに上海、そして大阪を経由して東京に戻るもので、もう1つは東京から大阪経由で上海に飛び、さらに北京に行って東京に戻るという路線でした。

今年は当社の中国路線就航40周年に当たります。この間、日中両国間の国交と経済、文化の交流を当社が支えてきたという自負があります。この40年間で約2700万人のお客様が当社の中国路線を利用してくださいました。私たちは自らを日中友好の「空の架け橋」と自覚し絶えず努力してきました。

現在、当社は北京、上海、天津、大連、広州、香港の6地点に定期便を就航させており、毎日15便が飛んでいます。今、日中関係は冷え込んでいますが、日中間の定期便の需要には影響は出ていません。

確かに日本から中国へ行く旅行客は減っています。しかし、昨年来日した外国人観光客は1000万人に達し、中でも中国から日本を訪れる観光客は増え続けています。今年1月から5月までの期間に日本を訪れた中国人観光客は前年同期比90%以上増加しました。日中関係が厳しい時期でも民間交流はなお盛んであり、大きな影響は受けていないことが分かります。

―― よく中国に行かれていますが、中国、中国人に対する印象はいかがでしょうか。

植木 現在、手元に十数冊のノートがありますが、これはすべて私が操縦したフライトの情報を記した個人的なノートです。国際線でも国内線でも、毎回のフライト時間などを正確に記入していました。また、会社のデータと比較して誤りがあるかどうか見ることもできます。1975年、23歳の入社の年から始まっています。

ここには私の中国へのファーストフライトの記録もあります。それは1981年9月11日で、成田空港から北京に飛びました。帰りは普通、北京から成田への便に乗務するのですが、その記録がありません。つまり、仕事で飛行機を操縦して北京に行き、帰りは乗客として戻っている。仕事として北京に行き、宿泊せずにそのままとんぼ返りしているのです。

1982年8月19日にも、私は成田から北京に飛びました。その時は北京に滞在し、21日に北京から大阪に飛び、大阪から成田に戻りました。その時に初めて北京で2泊しましたが、泊まったホテルには外国人しかいませんでした。その後、日本と中国との間の定期便は増え続け、現在は毎日飛んでいます。

中国のことをあまり知らなかったので、最初のうち中国人に対してはちょっと親しみにくい印象があったのですが、何度も行くうちに、フレンドリーな人がとても多いと感じるようになりました。言葉が通じませんし、食事のメニューもよく分からなかったのですが、中国の方の善意が心から感じられるようになり、だんだんと自分から中国の方と付き合うようになりました。

JALのパイロットとしての最後のフライトは2005年です。2007年には私はグループ会社の副社長、兼 機長を任されて、大連で新型飛行機のシミュレーター訓練を受けましたが、当時の大連は大変な経済発展をしており、とても印象深かったです。


1974年9月29日 JAL 日中航空定期便路線開設式典(日本航空提供)

 顧客のために価値を創造してこそ認められる

―― 日本には同規模の大手航空会社があり、競争も激しいようですが、JALはどのように対応していますか。また、グローバル戦略についてどのようにお考えですか。

植木 確かに、ヨーロッパなどでは1国1社というところが多いようですが、1社であれば必ず強くなるというものでもありません。お客様からすれば、どんどん競い合って品質とサービスが向上し、お客様の利便性に資するものがつくり上げられていけば良いのです。それから今、国際線はアライアンス間の競合になっています。国内だけで争うのではなく、世界に目を向け競い合うことによって双方の品質が格段にアップしてきていると確信しています。

また、航空会社のグローバル戦略は、世界の航空市場の各種変化に適応する必要があります。当社の事業が最も急速に伸びているのは主にアジア太平洋地区です。しかし、アジア太平洋路線のお客様の中には、さらに南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどに向かわれる方もいらっしゃいますので、各分野のサービスで努力を怠れば、遅かれ早かれ国際的な競争から脱落してしまいます。お客様は最も優秀な航空会社を選択しますので、私たちは常に強い危機感を持ち、全方位で成長していかなければなりません。

―― JALは世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」の「トラベラーズチョイス」部門で1位となっています。世界の航空業界におけるJALの立ち位置、強みは何でしょうか。

植木 当社はかつて失敗した経験があります。その時、私たちは反省しながら、どんな航空会社を目指すべきかを検討し、まず「2012~2016年中期経営計画」を策定しました。

これは破綻後、初めて自社で策定した中期経営計画でした。ちょうどLCC(格安航空会社)が登場した頃で、社員も今後会社がどの方向に向かうべきかを考えていました。当社はフルサービスを提供するネットワークキャリアとして、最高の商品、最高のサービスをお客様に提供して、一定の価値観のもと、対価をいただくという方針を明確に打ち出しました。今ではお客様の賛同を得、その価値が認められるようになりました。

以前LCCがなかった頃には、さまざまな階層のお客様がそれぞれのクラスを利用されていましたが、現在では価格を重視してLCCを選ぶお客様も増えています。そうした中で、当社を選んでくださるお客様はもっと価値ある良質なサービス、もっと良い旅を体験したいという方々です。

お客様にとって、さまざまな選択肢が生まれる中で、当社は特にハイエンドなお客様に選んでいただけるような会社を目指して努力してまいりました。

経営破綻以前は十分な投資ができず、機内の仕様、食事やサービスも不十分なところがありました。その後、お客様の快適な空間を確保する「スカイスイート777」プロジェクトを始動し、2013年1月にはフルフラットのビジネスクラスシートを備えたスカイスイートを導入、座席が一段と広く快適になりました。

その結果、1機当たりの座席数は以前より15%減りました。しかし、お客様に支払いいただく料金は以前と大きくは変わりません。85%の座席でいかに収入を増やすか。おかげさまで当社の取り組みはお客様の賛同を得、搭乗率がアップし、以前より1機当たりの収入が上がったのです。こうして当社はお客様や社員に対してこのようなスタイルで会社を発展させるということを明確に示したのです。

世界の航空会社の1つとして、当社が追求しているのは「お客様のためにどのような価値を提供できるか」ということであり、お客様のハートを射止めるのはヒューマンの力だと思っています。私たち社員が過去を反省し、お客様の立場から「意識改革」を行うことが大切なのです。

企業経営者は決断が必要

―― 日本で初めてのパイロット出身の航空会社社長として、パイロットの経験を経営にどのように活かされていますか。また、「経営の神様」――稲盛和夫名誉会長から学ばれたことは何でしょうか。

植木 私が初めて就職した会社はJALであり、35年間パイロットとして勤務してきました。経営に携わって4年半ですが、社長としてさまざまな経営判断を迫られます。パイロットの頃はまさか自分が社長になるとは思ってもいませんでした。パイロットとして退職したいとも思っていました。しかし、社長になってから、あの頃「世界一の機長」を夢みて努力していたことがすべて社長として活かされていると実感しています。

機長と社長には共通点があると思います。例えば機長は、飛行機のドアが閉まってから、それを開けてお客様が降機されるまでの間、飛行機の上ですべてを決定します。機長は重要なことをすべて決定し、お客様を安全に目的地に送り届けます。もしそれができなければ、機長にはなれません。

社長も同じで、多くの人の意見を聞きますが、最後に決断するのはやはり社長です。社長は勇気をもって大きな決断をし、全責任を負わなければなりません。機長は、機上の何百人もの命を背負っていますし、JALの社長は3万2000人のグループ社員の生活をあずかっています。この点で、機長と社長は似ていると思います。

稲盛和夫さんは3年間当社の会長を務めてくださり(現名誉会長)、その間私は多くの大切なことを学びました。しかし、皆さんが言うように、稲盛さんを「神様」にしてはいけないと思っています。一人の人間として理想を持ち、50年以上も自身の信念を貫かれた偉大な方です。この人についていこうと思わせる存在感をもつ、人間「稲盛」だからこそ価値があるのです。稲盛さんから学んだ最大のことは、自分の信念を貫く勇気です。このことを与えていただいたと思っています。

―― お父上は有名な俳優である片岡千恵蔵さんですが、お父様から人生観など影響を受けられましたか。

植木 テレビや映画を見た方はご存知だと思いますが、私の父はあまりしゃべらず、不器用な人でした。どうして映画スターになれたのかなと思う時もあります。記憶のなかでは、父は言葉で私を教育することは少なく、背中を見て学べというタイプの人でした。

いくつか印象深いことがあります。結婚後、私はある親戚に頼まれごとをしたのですが、結局、「助けて欲しいという人がいるのですが、力を貸してもらえますか」と父に頼むことになりました。父はその件をすべて処理してから、「自分でできないことを軽々しく引き受けるんじゃない! 男は自分でできることを引き受けるべきで、父親を頼ってはだめだ」と私を叱りました。

父は弟子に対して非常に厳格でしたが、弟子たちからはとても尊敬されていました。どんなに偉い人が来ても自ら出て行かないのに、お正月にお弟子さんが奥さまとお子さんを連れて年始の挨拶に来ると、父は自ら玄関に出て出迎えたのです。ある時、なぜかと聞きました。すると父は「弟子は俺の弟子だが、奥さまやお子さんはそうではない。あの弟子が今日あるのは奥さまたちのおかげなんだよ。そういう方には礼儀を尽くさなければいけない」と答えました。父はこのように身をもって教えてくれ、多くの道理を理解させ、生涯の教えを授けてくれました。