青山 浩 有名火鍋チェーン『小肥羊』ジャパン代表取締役
『小肥羊』で広げる中日食文化の交流

2005年、中国の大手火鍋専門チェーンの『小肥羊』上海陸家浜店に、再び常連客が訪れた。彼は日本人で、中国語はあまり話せなかったが、とにかくよく食べた。紅白二種類のスープの鍋を、とても嬉しそうに食べた。来店の回数が増えると、多くの客を目にしてきた店員も彼に興味を抱き始めた。「日本人は、普段羊肉を食べないはずなのに?」。後に、この日本からの常連客は、上場IT企業ウェブクルーの青山浩取締役だと知った。

 

大の火鍋好き

とにかくよく食べる! 青山浩氏は火鍋好きで、中国へ出張する度、機会を見ては各地で火鍋を味わった。上海支店を視察した折、偶然『小肥羊』に出会った。

その味が忘れられなくて、それからというもの、新鮮で柔らかく濃厚な羊肉の火鍋を味わうため、ほとんど1週間おきに金曜の夜中国に飛んで、日曜の夜日本に戻った。

彼は、これまで食べた火鍋での中で『小肥羊』が一番美味しかったと話す。「この火鍋を日本で広めたい」。IT界の風雲児に飲食業にも参入したいと思わせるほどの味であった。

 

大胆な人

大胆な人である。青山浩という人物をよく知る人は、彼がIT業界から飲食業に参入すると聞いても驚かなかった。東京大学法学部を卒業後、彼は果敢に判断を下し大胆な行動をとったからだ。

日本経済全体が下降していた90年代、就職難の時代にあって、大手企業に就職できたとなれば、ほとんどの人は一生辞めないだろう。ところが、青山氏は26歳の年に起業のため富士銀行(現みずほ銀行)を退職し、彼の興した企業がビジネスで成功を収めて後、今度は中国の『小肥羊』に夢中になった。

やると言ったらやる! 青山氏の、『小肥羊』ブランドの日本輸入への思いは、中国の『小肥羊』グループ首脳の予想をも超えていた。それは店舗の用地選定から内装まで事の大小を問わなかった。

『小肥羊』の名刺のデザインも、中国側の責任者と半日を費やして話し合い、文字の大きさやデザインを細かく指示した。店員のユニフォームのデザインには丸々2カ月かけ、中国側の責任者を困らせたが、それ以上に敬服させた。

 一生懸命の人

何事にも一生懸命な人である。2006年9月に『小肥羊』第1号店を東京渋谷に開店してより8年、今では新宿、赤坂、銀座、品川、吉祥寺、横浜の関内、大阪の心斎橋、札幌等11店舗にまで広がった。

青山氏は話す。「初めはただ『小肥羊』が好きで、こんなおいしいものを広めない手はないと思いました。儲けは二の次です」。しかし、日本に長年住んでいる人は、日本人が普段あまり羊の肉を食べないことは知っている。『小肥羊』を日本に誘致する際、不安はなかったのだろうか。青山氏は即座に否定し、笑いながら答えた。

「私は『小肥羊』の火鍋はとても美味しくて体にも良い、非常に優れた商品だと思っていました。初めから日本でも必ず受け入れられると思っていました。美味しいものは万国共通です。人はみな美味しいものを食べたいと思います。以前なら、欧米人は生の魚を食べると病気になると考えていましたが、今では、日本の寿司は欧米で大流行しています。中国の『小肥羊』も同じです。衛生的で美味しくて体にも良い。受け入れられないはずがありません」。

青山氏にはさらに、中国から大量に羊肉を輸入したいという遠大な構想がある。「現在日本はTPP加入の問題を議論していますが、私は中国の羊肉をたくさん日本に輸入して、『小肥羊』をもっと広めたいと思っています。日本の牧畜業にダメージを与えるわけでもありませんし、日本人に体に良くて美味しい羊肉を食べてもらうことができます」。

 

率直の人

率直な人である。中日関係はいま、1972年の日中国交正常化以来最悪の状態である。関係の悪化は両国の国民感情にも影響し、多くのビジネスマンたちが厳しいビジネス環境を嘆いている。

青山氏は語る。「日本と中国の相違点を認識した上で、両国の国民は民間レベルで友好を進め、この方向性を堅持していくべきです。日中両国が友好路線を堅持していくことが問題解決の原動力になります。日本人も中国人もお互いに強い関心と尊敬の念を持っているのです」。

時事通信社が行った調査によると、安倍内閣の支持率は2014年7月時点で44.6%まで下降し、12年12月に第二次安倍内閣が発足してより最低を記録した。

日本の政治の右傾化に対して青山氏は独自の経済的観点から、日本社会全体の変化を分析する。

「国がうまくいっているかどうかは、人口が増えているかどうかで判断できると思います。国全体の価値が上がれば人口は増えます。価値が下がっている国は人口も減っています。世界全体における日本への需要が減っているのだと思います。だから、仕事が減り社会的資源も減り、自然に人口も減少していく。日本の若者は結婚してもなぜ子どもを持ちたがらないのか。それは不安だからです。社会的資源が減少し続けている中、人々は本能的に危機感を抱き、競って奪い合うのです。こうした社会性は日本の外交にも影響し、諸外国との付き合いが強硬的になるのです」。

日本の経済界のリーダーとして、青山氏はアベノミクスをこう評価する。「現状から見て、不足している部分はあるにせよやらなければならない政策です。アベノミクスで環境設定が整った中で、今後日本経済が良くなるかどうかは、日本人が頑張れるかどうかです。リーダーが、総理大臣が明確な方向を示すことが最も大事です。安倍総理は外交と軍事はさておき、経済政策においてはやるべきことをやっていると思います。才能のある人は起業しましょうとか、日本人の協調精神を発揮して働きましょうと呼びかけています」。

挑戦の人

まさに挑戦の人である! 2006年に『小肥羊』の日本第一号店を開店し、11店舗に発展させるまでは決して平坦な道のりではなかったと、青山氏は率直に語る。その過程で最大の難関は、全企業共通の問題だが、人材の採用と教育の問題だったと言う。

「人材の発掘には、記者がニュースを追って奔走するように、自分の足と眼に頼るしかありません。仕事で多くの人と接しますが、この人は人材だと思えば全力で説得に当たり、『小肥羊』の魅力や入社後の展望を語ります」。その過程で青山氏の人格と魅力も相手の心を打つ重要な要素となっている。

現在日本の『小肥羊』には、アルバイトも含めて100名以上の中国人従業員がいる。グローバル企業としての人材の活用法を、才能のある人を登用し、才能を発揮してもらうことだと彼は話す。

「仕事のできる方は日本人、中国人を問わずポジションを与えて、どんどん成果を出してもらうことです。実際、私の頼りになる秘書は中国人です。彼女は最初アルバイトとして働いていましたが、優れた働きぶりで頭角を現したのです。私が常々従業員に強調しているのは、お互い学び合い長所を吸収し、共に向上しようということです。中国人従業員は日本人従業員から日本語を学び、日本人従業員は中国人従業員から中国語を学ぶのです。私自身も業務の中で少しづつ中国語を身につけています。大学時代、第2外国語が中国語でしたので、多少の基礎はありますから」。

 

忍耐の人

忍耐の人である! ビジネスを成功させる上で青山氏が鑑としてきたのは、現代の「経営の神様」ではなく、260年の長きに渡って和平統一を成し遂げた徳川家康だという。

「徳川家康には非凡な忍耐力と冷静に大局を認識する能力があり、時勢に応じ機をうかがって行動に出ました」。青山氏もまた、『小肥羊』の素晴らしさに魅せられてより、商機をうかがい、計画を練り念入りな準備を行った。それは店舗の用地選定から名刺の文字まで事の大小は問わなかった。そして、最も適切な時を選んで、日本社会に『小肥羊』を送り出したのだ。

徳川家康は残念ながら若い頃、戦場を駆け回り、じっくり学問をしたことがなかった。家康自身、「私には学問がない。しかし、かつて人から聞いた『足るを知る者は常に楽し』という老子の言葉を忘れることができない」と語っている。

青山氏の座右の銘も中国のことわざ「人間万事塞翁が馬」である。老子の「災いは福の始まり、福は災いの始まり」と相通じるものがある。彼はこう説明する。「福と禍は絶対的なものではなく、常に変転するものです。いかなる状況下にあっても努力をしつづけていれば、ピンチはチャンスに変わるのです」。

日本の『小肥羊』は、長い歴史をもつ中国の食文化と、国境を越えた文化交流を推し進めている。

 取材を終えて

8月3日、雲南省魯甸でマグニチュード6.5の地震が発生した。8月5日、小肥羊ジャンパンの青山浩代表は中国駐日本国大使館に程永華大使を訪ね、義援金100万円の寄付を行った。程大使は真心に感謝の意を表した。青山氏は日本の企業家の中でも、中国が重大な災害に見舞われた際には常に一番に支援の手を差し伸べてきた。2008年5月の四川大地震の際にも、直後に100万円の寄付を行い、当時の崔天凱大使は感謝状を贈っている。