櫻田 厚 株式会社モスフードサービス代表取締役会長兼社長に聞く
「人に好かれる人こそ成功できる」

マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなど、アメリカのファストフード店が軒を並べる日本で、独自の立ち位置で全国展開するハンバーガーブランド——モスバーガー。これは日本で生まれ育った「日本製品」であり、国産の生野菜や国産肉などを使い続け、各店舗の小さな黒板には当日使われているレタスやトマトなどが、どの産地のどの農家で作られたのか記されている。モスバーガーはその個性と特色によって、日の当たる場所を走り続け、日本各地に1400店舗の花を咲かせ、海外でも8カ国に進出している。株式会社モスフードサービスの櫻田厚代表取締役会長兼社長は高卒で、アルバイト店員から始め、店長になり、のちに社長になった、立志伝中の人物だ。成功は真似できないが、学ぶことはできる。2014年4月11日、株式会社モスフードサービスの東京本部を訪れ、櫻田厚氏にお話を聞いた。

 

 

 

ニッチャー企業を立ち位置に

―― 御社は47都道府県すべてに店舗出店されていますが、同業種の中で、どこに立ち位置を置いていらっしゃいますか。また、社名の「MOS」の由来について教えていただけますか。

櫻田 弊社の創業者は登山を愛し、大自然に触れることが好きでした。彼はこう話していました。人は若い時には勉強でも、恋愛でも、社会活動でもさまざまな悩みに出合うものだが、大自然に触れて溶け込み、山頂から下界を見下ろすと、悩みが非常にちっぽけなこと、取るに足らないことに思える。人間社会は大自然の恩恵を受けてきたのだから、人間は思いのままに大自然を変えたり、破壊したりすべきではなく、大自然を胸に抱き、大自然のように人間社会に貢献すべきだ。

MOSは山(Mountain)と海(Ocean)、太陽(Sun)の三つの単語の頭文字を合わせた造語です。Mは山のように気高く堂々と、Oは海のように深く広い心で、Sは太陽のように燃え尽きることのない情熱を持って、を意味します。

四、五十年前、日本では飲食業にまだ偏見がありました。創業当初、私たちは日本社会での飲食業の地位と社会的な認知度を上げることに力を注ごうと決心しました。

1970年にはケンタッキーフライドチキンが、1971年にはマクドナルドが日本に進出し、日本の飲食業に衝撃と変化をもたらしました。私たちは豊富な資金を持つアメリカ企業と競争することはできないので、自らの特色、個性を持って差別化し、品質、衛生管理、顧客への真心で勝とうと考えました。

実は、市場のどんな分野でも企業は、リーダー企業、チャレンジャー企業、フォロワー企業とニッチャー企業に分類できます。例えば、自動車業界であれば、トヨタがリーダー企業、日産がチャレンジャー企業と分類できます。ファストフードの分野では、モスはニッチャー企業といえます。自社の特長によって、独自路線を行くことが、当社がファストフード業界で守っている立ち位置です。

 

戦略の中心はアジア諸国

―― アジア諸国は食文化の面で似ていると見られていますが、実際には各国の食文化や価値観も違います。モスはアジア各国に店舗展開しており、中国にも3年前に進出しています。中国での展開状況及び今後の計画について、また、いわゆる「中国本土化」をどのようにお考えですか。

櫻田 皆さまのおかげで、モスは日本市場で純益はもちろん店舗数でもマクドナルドに次いで業界第2位となりました。第1位のマクドナルドと合算すると、市場全体の9割前後のシェアとなっています。

モスが初めて海外に進出したのは、23年前のことです。今では台湾、香港、シンガポール、タイ、インドネシア、オーストラリア、中国、韓国などに店舗を出しています。海外進出の歴史を振り返ると、当社の戦略の中心はアジア諸国であることが分かります。

現在、モスは中国大陸のアモイ、上海、広州など沿海都市に24店舗を展開しています。今後は徐々に中国西部の都市へと展開していく計画です。中国進出後は、モスの商品を地域の違いによって調整しています。例えば、南に行くにつれて辛い味が好まれるようです。

しかし、当社はブランドの特色を変えて「本土化」はしません。中国には現地の人々の好みに合った中国式ファストフードもたくさんあり、またマクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなどアメリカのファストフードもあり、それらの店と価格競争をしても勝ち目はありません。私たちは自社の個性、特色を守ってこそ、ようやく固定の客層を獲得できるのです。

 

経験と体験にまさるものはない

―― 4月は日本の高校生や大学生がキャンパスに別れを告げ、社会に出る季節です。中国には「教師は許しても社長は許すとは限らない」ということわざがあります。新社会人へのアドバイスについて。また、社会人として学ばなければならないことは何でしょうか。

櫻田 私が常に社員に強調しているのは、経験と体験にまさるものはない、積極的にさまざまなことを経験し、体験し、自分の心と生活を豊かにしなければならない、ということです。

人生の財産とは、限りある時間と限りある歳月で、どれくらい経験し、体験できるかということです。新しいことに出合うたびに、人生の引き出しは増えていき、引き出しが増えるほど、財産も増えていきます。違う状況に遭遇した時には、違う引き出しを開けて、豊富な経験によって対応できるのです。人の自信とエネルギーは、プロセスの中でそれに伴い増加するものです。

 

他人に好かれる人が成功できる

―― 櫻田社長は21歳でモスにアルバイトで入り、2年後に店長に昇進し、のちには社長になったわけですが、一番下からトップに登りつめるまで自らを鼓舞した理念や人生観についてお聞かせ下さい。優良で、大きく発展していく企業はみな人を基本としています。両親や創業者にはどのような影響を受けられましたか。

櫻田 私の人生観の形成には父と母の影響が強いと思います。父は私が17歳という一番多感な時期に亡くなりました。父は寡黙な人で、表現は苦手でしたが、私にはいつも「わかった」、「すぐにやりなさい」という2つの言葉を言っていました。昔は怖い人と感じていただけで、私たち親子はほかの父と子のようにいっしょに座って話をするようなことはありませんでした。

父には日記をつける習慣がありました。父が亡くなってから、私はその日記をずっと大切にしています。日記を通して父の考えを理解しました。父は、人として最も大切なのは正直と謙虚だと考えていました。

父が早くに亡くなったので、母は母親でもあり、父親でもありました。母はとても強い人で、そのせいで私は成長してから女性を尊敬するようになりました。母がいつも私に対して言っていたのは、他人のため、社会のために貢献できる人になれということでした。母自身さまざまな出会いと別れを経験したせいか、母は私に、自分の理想を曲げないように、小さいことにこだわらない、生死のほかはみな小さいことだとも言っていました。

モスの創業者の影響も大きいです。彼は、人に好かれない人間は社会で成長し成功することはできないと幾度も私に言っていました。では、他人に好かれる人とはどんな人でしょうか。それは、他人の長所を見つけられる人です。人には必ず一つは輝く長所があるものです。それを見つけられる人こそ、他人に好かれる人なのです。

 

中国人の個人能力に敬服

―― 海外事業展開のため、5年以上台湾で生活され、上海にも1年半滞在されていたとお聞きしています。中国や中国人にどのような印象をお持ちですか。

櫻田 日本は島国で、海に囲まれているので、広島、長崎の原爆以外ほとんど攻撃されたことがありません。日本人は環境に保護された民族であり、指示に従い、大勢の力を集めて何かをすることが得意で、集団意識と集団能力が強いです。

これに比べて、中国人の個人能力の高さには敬服させられます。中国人ははっきり自分の主張ができますが、これは日本人にはない特長です。私の妻は台湾人ですが、彼女は自分というものをしっかり持っていると感じます。

現状の日中関係においても対話という方式を通して建設的な方法を探すべきです。50年後、100年後の未来のため、両国は話し合って解決し、協力するというのが最も理想的でしょう。

 

取材後記:

インタビュー後、櫻田社長に恒例の揮毫をお願いした。社長はすぐさま「素直と謙虚」と書いてくれた。これは寡黙だった父上が日記のなかで息子に遺した人生の箴言だという。人としての生き方を学んだ思いだった。