椋本 充士 株式会社グルメ杵屋代表取締役社長
日中両国は食品の安全で互いに学び合おう

1990年5月、一人の若者が電話で指定された時間に外食チェーン・グルメ杵屋の人事部に面接に訪れた。人事部長は履歴書を見て彼の顔をしげしげと見つめ、「父」の欄に書かれた名前を指して「この人が君の父上ですか」と聞いた。若者がうなずくのを見て、人事部長は社長室に向かい、社長に言った。「社長、社長の息子と名乗る者が面接に来ているのですが」――。面接に来た若者はグルメ杵屋の創業者である椋本彦之の長男、充士氏であった――。光陰矢の如し、それから20年間の奮闘を経て、若者はリレー選手のごとくバトンを引き継ぎ走り続けて社長に就任、その2年後には赤字経営を黒字に転換した。2013年末、「和食」はユネスコ無形文化遺産に、食文化としては世界で5番目に登録された。14年1月22日、「和食産業の戦士」椋本充士社長を訪ね、和食の魅力や食品の安全問題について伺った。

 

「和食」は「道」と通じる

―― 現在、中国はもちろん日本でも、食文化や食品の安全などに対する関心が高まっています。さらに「和食」は昨年末、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。450店舗を率いる外食チェーンのトップとして、「和食」をどのように捉えていますか。「和食」の魅力はどこにあるのでしょうか。

椋本 「和食」は「日本料理」とも呼ばれ、日本の風土や人情によってはぐくまれたものであり、日本独自の価値観と哲学を体現したものです。日本には「道」という言葉がありますが、これはある技能や技巧を文化の香りを持つ「道」に昇華させるもので、書道、華道、茶道、柔道、棋道、剣道、空手道などがあります。実は、日本で「道」とされるものは、すべて料理と密接な関係があるのです。

中国では「厨師」、日本では「料理人」と呼びますが、料理人たちは余暇を利用して茶道、華道、書道などを学び、食器の選択や美しい盛り付けなどを料理に応用しています。日本料理と「道」には共通点があり、それが「和食」であると私は思います。

「和食」は料理や飲食というだけでなく、独自の文化を内包しており、それによって全世界を風靡したゆえに、無形文化遺産に登録されたのでしょう。

 

お客様に喜んでもらえる店に

―― 社長に就任されたのは、会社が2期連続赤字決算というピンチに直面した時でした。どのように改革をなさったのか、改革の理念と仕組みについて、教えていただけますか。

椋本 当社は創業から合併を経て今日まで46年続いています。赤字となったのは4年ほど前で、会社が円熟期に入った42年目のことでした。当時、私は創業40年以上の成熟期、安定期に入った企業がなぜ赤字経営になったのか、苦悩しました。

その後、データを研究して、最近急に赤字経営となったのではなく、20年前にすでにその萌芽と傾向が現れていたことに気付きました。しかし、当時はそのことに注意を払わなかったため、連続2期の赤字にまで発展してしまったのです。

創業者と従業員の創業当時の目標は、会社をできるだけ早く大きくして、日本で一流の外食チェーンにし、株式上場するというものでした。この初心は良いのですが、頭の中が売上高と利益だけになってしまい、そのうちに一番大切なことを忘れてしまったのです。それはお客様の角度から出発しお客様のために考えるということです。

会社にとって、売上高と利益はもちろん重要ですが、会社を支える根本はお客様です。お客様があってこそ、会社は生き残れるのです。

私が改革を行った時の理念は一つだけ、「原点への回帰」でした。どのようにすればお客様に満足していただけるかを絶えず考えることです。飲食店は人と人とが直接対面する仕事ですから、お客様に満足していただけるように上から下までの「人」が頑張らなければなりません。

赤字経営ゆえに、多くの経費を削減する必要がありましたが、従業員の教育に対する経費は減らさず、逆に投資を行いました。結果的に、従業員の考え方を転換し、従業員教育を重視したことが、改革を成功させ、徐々に売上高が回復した主な理由だと思います。

 

中国人の好む「和食」を作る

―― 御社は現在、アメリカやタイなどに店舗を出され、今後、中国の上海でセルフうどん業態のフランチャイズを展開されていくそうですが、中国市場での和食の事業展開についてはどのようにお考えですか。グルメ杵屋が中国人客に受け入れられ、好まれる自信はありますか。

椋本 「和食」にとって、中国市場は非常に大きいと考えています。当社は以前、日本で中国料理店を経営したことがあり、その際に香港の友人と知り合い、中国大陸の友人を紹介してくれて、お互いに良い関係を築きました。

その時には提携の話はしませんでしたが、頻繁に交流しました。そうした付き合いのなかで、中国の消費者の市場ニーズはますます多様化しており、各国の食に対する受け入れも早い、ということに気付き、私は今後中国市場で「和食」は好まれ歓迎されるはずだと確信したのです。

今回、上海の友人と提携して店を開くチャンスがあり、現在準備中です。3月には正式オープンできる予定です。当社は3年以内に中国大陸にレストラン20店舗を出店する計画を持っています。もちろん、それぞれの国には独自の食文化があり、どの国の食が進出先の人々に必ず受け入れられるという保証はありません。マクドナルドにしても、米国と日本では店で販売されている品物も違います。私は、現地の特色を取り入れ、現地のお客様の口に合うものを提供することで、「和食」は中国で発展する余地があると考えています。

 

日中両国は食の安全で互いに学ぶべき

―― 現在中国では食の安全という大きな問題を抱えています。日本でも最近、高級ホテルやデパートでの食材の偽装問題が起きました。御社では450余りの店舗展開をする中で、食の安全についてはどのような戦略をお持ちですか。また、日中間で互いに学び合うべき点はあるでしょうか。

椋本 食の安全問題については、この数年、日本では次々に食の偽装問題が起きています。なぜでしょうか。私は、多くの人が「この程度なら大丈夫だろう」という姑息な気持ちを持っているからだと思うのです。

外食産業の人間にとっては、偽装せず正しく表示し、お客様に安全、安心なものを提供するということが基本です。当社のレストランチェーンでも中国産の野菜などを使っていますが、独自のさらに厳しい「安全基準」を設けています。互いに検査し、互いに監督し、共同で食の安全を守っています。

最近、日本のメディアで数年前に中国から輸入した「毒入り餃子事件」の後続報道がありましたが、このようなことに対してはどこの国がいいとか悪いとかを議論するのではなく、最終的な被害者が消費者である、われわれ自身であるということを考えるべきです。

日本のメディアでは中国の大気汚染問題をたびたび報道していますが、日本にも以前、大気汚染問題がありました。私が小学生の頃は、光化学スモッグがひどい日には休み時間に校庭で遊ばせてもらえないことが何度もありました。その頃私は、工場が流した廃棄物が流れ込んだ東京湾のヘドロから怪獣が生まれるというSF映画を見たことがあります。

中国が現在体験していることは、日本もかつて体験したことであり、経済成長期にある国が直面しなければならないものだと言えるでしょう。私は、日中両国は外交問題だけに集中すべきではなく、大気汚染や食品の安全問題を解決するために、互いに学び合い、共に向上していくべきだと考えています。

日本も中国のために何ができるかを考えるべきです。中国に食品の安全問題が発生するのは、日中双方にとって不幸なことです。日本のメディアの報道の仕方も反省されるべきでしょう。

 

中国の友人との友情は人生の財産

―― 日本のメディアは、現在の中日関係は国交正常化以来最も冷え込んでいるとしています。ことわざに、「民は食を以て天と為す」といいますが、「和食」を通じて中日両国の民間交流を推進していくことは可能だとお考えですか。また、個人的に中国、中国人にどのような印象をお持ちですか。

椋本 日中関係には確かに、領土問題などの課題があります。私も中国人の友人とこの問題について話し合いました。その結果得られた結論は、領土問題はわれわれの代で解決できる問題ではない、われわれの子孫に解決してもらうべきだというものです。

現在のように、日中両国が自国の立場に固執し、まったく譲歩しないということでは、解決へ導くことはできません。問題を解決しようとしたら、並外れた知恵が必要です。過去の悲惨な経験は、戦争では解決できない、お互いに協力して、優れた知恵を出し合わなければこの問題は解決できないということを私たちに教えているのです。

私が中国に行った時、中国の人たちはとても友好的で、親切で、私が日本人だからといって偏見を持つということはありませんでした。同様に、私も中国の友人が来日した時には全身全霊で彼らをもてなします。私個人の生活のなかでは、メディアがいうように日中関係が悪いとは感じられません。

今回、上海の友人たちと提携して中国に店を開くにあたり、これを契機に当社も日中間の民間友好を推進する力となれるよう願っています。先日、当社も中国の外食チェーン店の求めに応じて、従業員を派遣し寧波での技術援助を行いました。

私は今まで十回前後中国を訪れています。北京、上海、西安、寧波、広州、香港などの都市に行ったことがありますが、中国で多くの友人と知り合い、皆さんと厚い友情を結びました。

それも私の人生の財産の一つです。友人たちと知り合った時には、まさかいつかいっしょに仕事をするとは思ってもみませんでした。心が通じ合い、意気投合したというだけでした。20年以上友達として付き合った後、初めて一緒に店を持つことになったのです。これも不思議な縁だと思います。

 

社長の息子が面接に来るとは

―― 大学卒業後、他の企業に就職した後、お父上が創業者であるグルメ杵屋の面接を受けて入社されたそうですが、お父上にはどんな印象をお持ちですか。

椋本 父の印象は「非常に厳しい」の一言です。私は大学卒業前に就職活動の相談を父にしました。「就活を始めるのですが、どうすればよいですか」と聞きました。実は「じゃあうちの会社を手伝ってくれ」と言われるものと期待していたのです。ところが、父の答えは「自分の人生だ、自分で決めなさい」でした。まったく私を自分の会社に入れる気はなかったのです。

そこで、私は他社に就職しました。数年後、私はやはり父の会社に入りたいと思ったので、母とも相談し、ある日夕飯を食べながら、「今の仕事を辞めて、お父さんの会社に入りたいのですが、どうすればよいですか」と父に言いました。父は「会社に入りたいならまず面接を受けなさい」と言うので、「誰に面接しに行けばいいんですか」と聞くと、「会社の人事部に連絡しなさい!」と言われました。

というわけで、私は父の会社の人事部長に面接してほしいと電話しました。人事部長は面接当日まで事情を知らないままでした。面接の時に私の履歴書の「父」の欄に書かれた社長の名前を見て、あっけにとられ、私を待たせて社長室に行きました。社長室から「君は人事部長だろう。人材を見極めて採用するかどうかを決めるのが君の仕事だ。私のところに聞きに来るのはおかしいと思わないのか」と叱責する声が聞こえてきました。もちろん、のちに私は部長に謝罪しました。まさか社長の息子が一般の人と同様に面接に来るとは思いませんよね。

入社してまもなく、会社が日本で中国料理のレストランを展開する計画を立てたので、私は広州、香港に行き、多くの中国人の友人と知り合ったのです。父は5年前に亡くなりましたが、中国の友人たちは日本に来た時に父の遺影の前で丁寧にお参りをしてくれて、とても感激しました。

ですから、私は日中両国間に摩擦があっても、人と人との真心の付き合いはどんな問題をも乗り越えられると信じています。

 

取材後記

日本では、多くの経済界の「大物」にインタビューしてきたが、取材後に社長自ら会社の玄関まで見送ってくれたことに大変感激した。しばらくして振り返ると、社長はまだ寒風のなかに立って見送ってくれていた。40年余りの歴史を持つ上場企業の社長が、このように人を遇するとは、まさに「神は細部に宿る」と感じた。