松井 忠三 株式会社良品計画会長
中国以上の市場は世界にない

「無印良品」(MUJI)は流行を追わない、簡素(シンプル)でありながら垢抜けているという生活理念、暮らしの哲学をもち、禅宗の美学を日常化し普及させている。松井氏は、「無印良品」の業績が悪化し前社長が引責辞任し、その後を任されるや、驚くべき行動に出た。売値で100億円分の衣料品の在庫を焼却処分し、企業文化を改革し、統一された社内規範を制定するなどして、「無印良品」を見事にV字回復させたのだ。6月10日、松井氏は「日中両国の『領土問題』については『棚上げ論』に賛成です。一部の日本企業がとっている『中国プラス1』の戦略は誤りで、中国に取って代わる市場はない」と、確信を込めて語った。

 

顧客は「無印良品」を待望

―― 「無印良品」は日用品や服飾品だけでなく、毎年250棟の住宅も販売しています。会員数(MUJI.netメンバー)も400万人に達しました。「無印良品」の誕生秘話について聞かせてください。

松井 1973年、日本は第一次オイルショックに遭遇しました。翌74年、日本は初めてGDPでマイナス成長となり、79年には第二次オイルショックが起きました。80年になると、日本は高度経済成長期に完全に終わりを告げ、成熟期に入りました。

この頃、ダイエーやイトーヨーカ堂などの大型量販店に変化が現れ始めました。毎年の売り上げ目標をほとんど達成できなくなってしまったのです。量販店業界は次第に、日本の消費市場と顧客ニーズの変化を意識するようになりました。そして、大型量販店はみな販売戦略を練り直し、「高品質、低価格」の自社ブランドの開発を戦略の重点とし、戦後初のプライベートブランド開発ブームが起こったのです。

そんな中、80年12月「無印良品」は西友のプライベートブランドとして売り出されました。しかし、他社の状況を見ると順調にはいっていませんでした。「低価格」だけに走り「品質」がなおざりになり、顧客のニーズに応えられていなかったのです。そこで、西友では“理にかなった安さ”という目標を設定しました。

それはどういうことか。袋詰めされたシイタケを例に挙げると、一般的に百貨店やスーパーで売られているものは、形が良く大きさも一律のものを選別しています。しかし、家に持ち帰ったら洗って小さく切るわけですから、形も大きさも関係ありません。ですから、我々が店頭に出しているシイタケは選別もしていませんし、ぶつけて小さな割れ目の入ったものまであります。作業工程を省略したため、価格も大幅に下げることができ、一般のシイタケの半額ほどですから大好評を博しました。

さらに、「無印良品」の家庭用ティッシュを例に挙げると、通常、ティッシュやティッシュボックスは使い捨てです。しかし、我々は80年にティッシュを発売した折、ティッシュボックスと中のティッシュを別々に売りました。ティッシュボックスはしっかりできているので、中のティッシュを使い終わったら、繰り返し補充できます。包装を簡素化し、コストを抑え、価格も安くできます。

デザインは禅の美学を参考にし、簡素化した結果、商品の品質そのもので顧客を惹きつけました。ブランド名も柄も色も付けず、品物本来の姿で自然に最も近い状態で販売しました。

83年、当社は青山学院大学前に初の単独路面店(1号店)をオープンし、1ヶ月で一年分の売り上げ目標を達成したのです。6年後、「無印良品」は西友から独立し、株式会社良品計画を設立しました。

これが、「無印良品」の誕生秘話です。つまり、日本経済の高度成長期終結後の消費者の意識やニーズの変化が、「無印良品」誕生の契機となったのです。

 

中国市場で競争力を発揮するのは“国産品”

―― 現在、海外23カ国に217の「無印良品」のショップを展開されています。多くの日本企業が中国進出後、商売の文化や消費傾向に大きな違いがあると報告しています。

松井 日中両国の商売の慣例には、確かに大きな違いがあります。私の体験から言いますと、最大の違いは、小売店とディベロッパーとの関係です。中国でお店をオープンするには、ディベロッパーと良好な関係を築く必要があり、日常的に食事をしたり会ったりしながら、意思疎通し合わなければなりません。

重慶の花園路街道に2号店をオープンする時、ディベロッパーは事前に、そこに地下鉄の駅ができ、高速道路の出口になることを知っていました。だから彼らはそこに高級マンションと商業施設を建設することを決めたのです。そして、我々の2号店はその商業施設内にオープンしました。

消費傾向について言えば、中国人は国産品が好きだと感じています。各市場における本国企業の実力は大変強く、売上高の上位はすべて中国企業です。

2013年5月までの、中国での店舗数は72ですが、2013年末までに100店舗を計画しています。

―― 昨年9月に中日関係が悪化した際、「無印良品」の中国での出店計画に影響はありましたか。

松井 まったく無かったとは言えません。2012年9月18日の週だけで、店舗の売り上げは36%減少しました。しかし、11月に入ってから100%以上に回復し、影響は1月半に止どまりました。 SPA(Speciality store retailer of Private label Apparel、製造小売業)がローリスク・ハイリターンをやり遂げたのです。

―― SPAはハイリスク・ハイリターンなビジネスモデルと言われていますが。

松井 製造小売業者は、一般的に商品企画、研究開発、販売のすべてを行います。当社が商品開発・販売を行っている商品の内訳は、日用品が52%~53%、衣料品が33%~34%、食料品が10%前後です。よって日用品がメインであり、ライバルはスウェーデンのイケアだけです。

1000円の商品の利益は500円ほどです。売価の半分が利益ですから、高収益がSPAの最大の特徴です。しかし、SPAが海外で成功することは容易ではありません。上海一の繁華街にある古奇フラッグシップショップの売り上げは決して良くありません。多くを自己責任で処理しなければなりません。コストは売値の50%前後とはいえ、自社でデザイン・開発した商品ですから、売れ残った在庫は処理に困ります。これもSPAがハイリスク・ハイリターンだと言われる理由です。

当社は他のSPAに比べればリスク管理はできています。なぜなら、お客様との交流によって得た情報を参考に商品開発を行っているため、お客様のニーズに応えられているからなのです。

結果の出ないことはやらない

―― 社長に就任されたとき、「無印良品」は創業以来最悪の状況でした。その後、見事に立て直し、売り上げもV字回復を果たしました。

松井 私が社長に就任した2001年は、業績が最悪の年でした。日本には“他人の不幸は密の味”という言葉があります。当時「無印良品」は終わったと言われました。全国の店舗を視察すると、倉庫には山のように在庫が積まれ、衣料品は売れないばかりか、売れたものにも不良品を出してしまい、商品を回収しました。そこで私は思い切って、100億円近い衣料品の在庫をすべて焼却処分しました。5年間の努力の末、クレームは8割以上減少しました。

通常、赤字を黒字にするには、人員の削減、閉店、規模の縮小などを行いますが、こういった調整は2年もあれば済むでしょう。失敗した経営モデルを成功の経営モデルに転換することが、企業再建の鍵であり、最難関の課題でもあります。

そこで、失敗の原因を総括し、店内業務、レイアウト、商品の陳列、レジ業務、接客方法などを詳しく規定した全店舗統一マニュアルを作成するなど企業文化を改革し、企業再建に取り組んだのです。

私自身は、物事は徹底的にやらないと気が済まない性格ですから、結果の出ないことはやらない、やるとなったら結果が出るまでやりました。

中日間の問題は「棚上げ論」に賛成

―― 現在、中日関係はまだ難しい局面にあり、両国の貿易に一定の影響を与えます。両国の関係を改善するには、どこから手をつければよいでしょうか。

松井 いわゆる「領土問題」にはどんな解決方法もないと思います。我々の代で解決できる問題ではなく、私は「棚上げ論」に賛成です。次の代に託すべきです。

「領土問題」が起きてから、多くの日本企業は(中国市場を重視しつつも、リスク分散を図って他国に拠点をつくる)「中国プラス1」戦略をとり、中国市場への投資リスクを減少させています。しかし、私はこのやり方は間違っていると思います。現実的に、世界で中国に取って代わる市場を探そうと思っても無理です。

2013年、「無印良品」は日本で390店になりました。中国では100店舗を計画しています。今は規模的には日本の四分の一ですが、我々の計画では、あと10年以内に日本の店舗数と同じにし、売上高も同レベルを目指します。また、将来的に売上シェアは、日本市場を超えると見ています。

多くの日本の企業家は、“中国リスク”を語りますが、リスクを伴わないビジネスなどありません。そこにリスクがあったとしても、絶えず開拓していくべきです。中国市場に進出するほど企業収益も大きくなると確信しています。