中村 健一 東京山喜株式会社代表取締役社長
和服で中国人留学生に日本文化を紹介

歴史、民族、文化において最も重要な要素は伝承である。現在、日本は老舗企業の数において世界一である。1924年に創業された東京山喜株式会社もその一つだ。伝統と革新の狭間で如何に足場を固めるかが老舗企業の課題である。三代目社長として、中村健一氏もそのことで悩んできた。1999年には、リサイクル着物ショップ『たんす屋』をオープンさせ、斬新なスタイルで家庭の中に眠っている和服に光を当て、第11回ニュービジネス大賞優秀賞を受賞した。 7月10日、毎年、外国人留学生のための『和服茶道体験会』を開催している中村氏を取材し、和服のリサイクルと文化の伝承について、また、日本の和服熱をリードされた美智子皇后の御貢献等について話をうかがった。

 

 

和服は中国で生まれ

日本で改良

―― 和服は呉服とも言います。そのため、和服のルーツは中国にあるという説を唱える人もいます。この点についてどうお考えでしょうか。

中村 それについては様々な説があります。一つの説として、和服のルーツは中国古代の呉の国、現在の江蘇省にあるというものです。江蘇省・呉江県は今でも養蚕が盛んな地域です。養蚕業の発展により生糸が豊富です。生糸は絹の原料です。絹で作った衣服を「呉服」と呼びます。

千数百年前、「呉服」は朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。その時代の歴史資料を見ると、当時の「呉服」は現在の和服とは少し違っていて、朝鮮の民族衣裳に近かったようです。 

その後、1000年をかけて日本人は少しずつ自分たちに合ったデザインに変え、「和服」になりました。その特徴は直線的な縫製にあります。洋服は人体の形に沿った縫製ですので曲線になります。和服は平面で立体を包むという考え方なので直線的な縫製になります。これは日本独自の考え方です。こういったことから、私は「和服は中国で生まれ、日本で改良されたもの」と言いたいと思います。

 

美智子妃殿下が日本の

「和服熱」をリード

―― 日本人の生活様式は常に変化し、若者も次第に日本式の生活スタイルから離れていっています。こうしたことは、和服文化にも何か影響を及ぼしていますか。

中村 日本で和服が最も流行したのは江戸時代です。ほぼ中国の清王朝の時代に当たります。江戸幕府の将軍の「大奥」の女性たちはみな和服を着ていました。1968年の明治?新以降、日本では西洋化が始まり、洋服を着るようになりました。1945年以降、今度はアメリカ化が始まり、洋服が流行しました。第二次世界大戦期間中の1941年から1945年ごろは、贅沢が禁止され、政府は国民服令を制定し国民服を提唱しました。当時、和服は贅沢品とされ商うことを禁止されました。

1959年、皇太子であった今の明仁天皇が成婚され、盛大な結婚式で皇太子妃美智子様が和服を着用されると、たちまち国民の注目を浴び、あっという間に日本に「和服熱」が涌き起こりました。加えて、当時は多くの日本人は着物を戦争で焼かれたり失ったりしており、着物を新たに買う必要があったのです。あの年から日本社会の「和服文化」は全盛期に入り、1975年には和服の市場規模は2兆円に達しました。

それ以降、日本の和服市場は低迷しています。なぜそうなったのか。一言では説明できませんが、一つには消費思考の変化があると思います。それまで和服を買うことは裕福の象徴とされ、経済力の表れとされていました。娘が嫁ぐ時、数百万円の和服を買う家庭もありました。 

二つ目に価値観の変化です。皇太子殿下の結婚で和服熱が沸き起こったのは、美智子妃殿下が民間から初めて皇室入りしたからです。これは歴史を画する一大事でした。当時のメディアは、しばしば日本橋の皇室御用達の呉服店を取材していました。後の雅子妃殿下と皇太子殿下の結婚式ではさほど騒がれませんでした。美智子妃殿下が和服に及ぼした影響力は雅子妃殿下の100倍でした。

現在、和服の市場規模は3000億円程度にまで減少しました。これは以前の15%です。ファッションスタイルが溢れている今日、和服しか買わないということはありえません。この市場が再び活況を呈することはもうないと思いますが、私が失望落胆することはありません。

 

和服のリサイクル事業は

環境保護に益する

―― 環境保護意識が日増しに高まる今日、和服のリサイクル、クリーニング、リフォーム事業を立ち上げられました。これは業界にとって全く新しい試みです。なぜ和服のリサイクルをしようと思われたのですか。

中村 現在、およそ4億枚の和服と4億本の帯が日本の家庭のたんすに眠っています。一揃いを平均10万円とすると、40兆円を無駄にしていることになります。この眠っている資源を掘り起こし再利用する必要があると考えました。そうすることによって和服市場を活気づけ、環境保護にも一役かうことができます。

和服の原材料の大部分が絹であることはよく知られています。ウールや木綿や化繊もありますが、絹で作ったものは非常に貴重で、日本人の絹に対する思いは格別です。皇室では天皇陛下は稲を植えられ、皇后陛下は絹の原料になる繭を取る為に蚕を育てられます。このように絹は特別なものなのです。

日本の気候は高温多湿で、絹でできた和服などは家庭に長く放置しておくと、カビが生えたり、シミができたりと、すぐに劣化してしまいます。年に二度は虫干しをしなければなりません。しかし、多くの人がそういったことには無頓着です。ですから当社では各家庭で長く着られていない着物や帯を買い取り、丸洗い、殺菌、抗菌、消臭加工した後に、価格を再度設定し市場に出しているのです。現在、毎年50万枚の着物や帯を買い取っていますが、これは全体の0.06%前後に過ぎません。残りの99.94%はまだ家庭のたんすに眠ったままです。さらにこの事業に力を入れていきたいと考えています。

 

「和服」で留学生の

日本理解を促進

―― 毎年外国人留学生のために『和服茶道体験会』を開催され、留学生が実際に日本の文化に触れる機会を提供されていますね。その意義についてお聞かせください。

中村 日本の和服のルーツは中国にあり、中国は和服の生産基地の1つです。ですからより多くの中国の方々に和服を理解してもらい、和服を好きになってもらいたい、和服を通じて日本の伝統工芸に触れてもらいたいと思っています。これも日本文化、日本人の価値観を理解してもらうための一つの手段です。

日本と中国は地理的には隣国ですが、価値観は違います。深い部分は実際に触れて感じ取る必要があります。そうして初めて日中両国は互いに理解を深めることができるのです。和服が少しでもそのお役に立てればと願っています。

この前、慶応大学のAIESEC(国際経済学商学学生連合会)のスタッフが訪ねて来られ、海外の研修生を受け入れてもらえますかと聞かれました。和服に興味のある方なら誰でも歓迎しますとお答えしました。

当社に最も多く来られるのはフランス人で、その次が中国と東南アジアの方々です。彼らは皆、和服と和服文化に強い関心を抱いています。こんなに多くの中国人や中国人留学生が和服を通して日本をさらに理解しようとされていることをとても嬉しく思います。

 

中国の沿海都市に

和服市場を開拓

―― 中国に行かれたことはありますか。また、どのような印象をお持ちですか。

中村 1989年から1999年の10年間、当社は江蘇省蘇州市で工場を経営していました。その頃は毎年のように10回は中国を訪問していました。その10年間で100回ほど訪問しました。

以前は中国を生産基地にしていましたが、今は市場が変化し、生産基地を少しずつベトナムに移しています。しかし、今後は中国の沿海都市に市場を開拓しようと計画しています。上海や広州にある多くの撮影班や写真館が、当社に和服を買いにきます。中国の沿海都市での和服の需要の拡大を見込んでいます。