大橋 洋治 全日本空輸株式会社会長
日中両国の「架け橋」になりたい

「私の名前は“大橋”ですので、日本と中国の“大きな架け橋”になれればと思っています」。全日本空輸株式会社の大橋洋治会長(72歳)は熱っぽく語った。

 1940年、大橋会長は中国の東北地方で生まれた。1960年代に慶応大学で学び、卒論のテーマは「日中貿易論」だった。全日空に入社してからは、中日友好の「井戸を掘った人」と称される岡崎嘉平太氏(全日空2代目社長)のもとで、中国各地の航路開拓に貢献した。2月1日午後、海外から帰国したばかりの大橋会長は、インタビューに応じてくれた。

 

中国も私の故郷

―― 中国の東北部でお生まれになり、幼少期を中国で過ごされていますね。大学卒業後、実業家として輝かしい道を歩まれ、後に中国(大連、佳木斯)の名誉市民にもなられています。会長の人生にとって中国とはどのような存在ですか。

 大橋 ええ、私は1940年に中国東北部の佳木斯(ジャムス)で生まれ、そこで5年間暮らしました。日本に帰る途中に、1年間余りをハルビンで生活しました。その後、母と一緒に葫芦島(ころとう、遼寧省南西部の港湾都市)から日本に戻りました。中国は、私にとって生まれ故郷です。故郷に対する思いは、言葉で言い表せないものがあります。

大学時代、日中貿易を研究課題にしました。というのも、父が中国で日中貿易に関っていたからです。当時、日中貿易というテーマを選択する学生は私だけで、極めて珍しく、資料もありませんでした。しかし、日本と中国は将来、大規模な貿易が始まると信じていましたので、多くの先輩や先生の助けを借り、論文を完成させました。

1964年、全日空に入社しましたが、当時の全日空は、まだまだこれからの会社で、年間の売上も100億円程度でした。その頃、日本航空は国が株主の会社で、大きな力を持っていました。しかし、1970年代に日中国交が回復し、平和友好条約が締結されてから、全日空は日中関係の発展に多くの貢献をしてきました。

今でも覚えているのは、1972年8月、全日空は日本の戦後、初めての中国行きの飛行機として、羽田から上海までの上海歌舞団のチャーター機を引き受けたことです。1972年9月、田中角栄首相が訪中した時の随行記者団が乗ったのは、全日空のチャーター便でした。その頃、日中間のチャーター便の多くは、全日空が運航していました。私にとって、中国とは、全日空の発展の象徴だと思っています。

 

アジア市場を第一に

―― 1987年4月に全日空が中日間の定期便を就航してから、今年でちょうど25年ですね。昨年2月に発表された全日空の『経営戦略』によると、経営ビジョン「アジアNo.1」の実現に向けて、昨年の6月19日には、成田―成都線が新規就航しました。1987年当時、中日間の定期便については、どのように考えていましたか。また、今後の具体的な取り組みについて。

 大橋 先ほども申し上げましたが、1986年以前は、航空政策に関る日本政府の方針により、全日空は定期便ではなく、チャーター便という形で中国路線を運航していました。1986年にその方針転換があり、全日空も国際線に進出できる環境が整った事を契機に、国際線定期便の開設も急務となりました。

もちろん、全日空にとって、国際線を展開するにあたり、中国という市場は必要不可欠でした。1987年に全日空は日本から初めて北京、大連行きの定期便を開設しました。

その頃、北米と欧州の国際線も就航しましたが、中国路線は欧米路線よりも先に利益が出ました。全日空としては、中国をはじめ、アジア市場を中心とした戦略は重要です。当時も、その戦略の重要性を意識し、「損をしてでもやろう」という方針を選んだのです。

今日、我々はやはり未来に着目しています。全日空が成田から成都へ初の中国内陸部路線を開設したのは、中国内陸部の経済発展を支援し、中西部地域と日本との経済・貿易交流を促進したかったからです。

近い将来、全日空はまた、武漢、西安への直行便も就航したいと思っています。自分も武漢に視察に行きましたよ。できれば、東北のハルビンへの路線もやりたいと考えています。

 

中国の観光客に感謝

―― 昨年、「3・11」東日本大震災が起こりました。その後、さまざまな影響で、中国などアジアからの訪日観光客が大幅に減少しました。こういう情況に対して、全日空の方針に変化はあったのでしょうか。今後の具体的な取り組みについて。

大橋 「3・11」大震災が起きてから、便数を減らさなければならないほど、中国から日本への観光客の数はぐっと減りました。また、中国へ行く日本の観光客もかなり減少しました。私にとっても、非常に辛い時期でした。

2008年、四川省?川(ぶんせん)大地震の時、日本は?川に援助をしました。昨年、「3・11」大震災の時に、四川の人々の支援と援助を受けました。特に、昨年の6月に成田から成都へ就航してからは、四川の人々がこの便で来日し、復興を支援してくれました。本当に感動しました。ありがたいことです。

最近は中国からの訪日観光客も徐々に回復しています。日本にとっても、全日空にとっても、大変ありがたいことです。全日空の飛行機に乗って、もっと多くの中国の観光客に日本に来ていただきたいですね。

人と人との交流は両国の親善を深めるのに、大きな役割を果たします。新しい路線の開設により、日中の国民間の交流が深まり、貨物の輸送も増えて、経済の発展につながってほしい。そのために今後も更に努力をしなければならないと思っています。

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取材が終わる頃、大橋氏は次のように強調された。

「若い人たちに期待しています。今年は日中国交正常化40周年という節目の年で、“日中国民交流友好年”として、様々なイベントがあります。私は日本側の実行委員会副委員長を務めていますが、日中の若者たちが一人でも多く参加してほしいと心から願っています。日中友好の未来は、若者の双肩にかかっているのです」。