真実こそ映画の生命線
映画『周恩来物語』批評

河北映画制作所、華夏電影発行有限責任公司などが共同制作した『周恩来物語』(原題『周恩来的四個昼夜』)が、現在中国各地で上映され大好評を博している。この作品では4つの初の試みが観衆の眼を引きつけた。それは、1960年の飢饉の映画化、高官の嘘を暴き真相を究明したこと、社会主義の悪弊を真っ向から批判したこと、指導者が民衆に詫びていることだ。

  

 真 相

『周恩来物語』は1950年代末から60年代初めの自然災害を背景に、周総理が革命老区(1920~40代にかけて中国共産党が建設した革命根拠地)の河北省邯?市武安伯延鎮に視察に赴いた4日間を描いたものである。非常に重い内容で、この時代を真正面から再現している。

この作品には「歴史を暴く」というコンセプトが感じられる。人民公社の大食堂はどのように廃止されたのか。国家指導者はどのように被災地に入ったのか。彼らは当時何を見、何を聞き、何を食べていたのか。最大の障害は何だったのか。民衆の意見はいかに反映されていたのか。国家指導者間でどのように意思疎通が図られていたのか等。どれも、今の若者たちには馴染みのない内容だ。

陳力監督が率いるチームは、当初から歴史の真相の追求と人物の真情に迫ることをコンセプトとしていた。彼女たちは、大量の歴史文献を調べ素材の分析・選択を行い、早くから物語の舞台となった邯?市武安伯延鎮に赴いて調査を行った。

監督が「総理に会いましたか?」と聞くと、現地の農民は話す前から感極まり「総理がいなかったらこの村も私たちもありません」と答えるのであった。伯延鎮の人々にとって、一生のうちで最も大事で最も心に残る出来事だったのであろう。誰もが生き生きと当時の様子を語った。

会議のシーンは当時実際に使用した部屋で撮影し、周総理を演じた孫維民が座った椅子は周総理が実際に座った椅子で、窓の格子までもが当時と同じものであった。劇中のもう一人の重要人物である張二廷は実在の人物であり、周総理がこの地を離れる際、孫二廷の一番幼い孫を引き取りたいと申し出た話もフィクションではない。

 

真 情

作品中の老人が総理に?麺(えいめん:邯?地方の麺料理)をふるまうシーンはフィクションであるが、全くのフィクションではない。当時、村人たちは伯延鎮に来た周総理に肉をふるまいたいと思っていたが、総理はそれを聞いて怒ったという事実がある。映画では登場人物の真情がそのまま描かれている。陳力監督が最も強く感じたのは現代の人たちが忘れた、老区の人たちの党への思いであったという。

専門家たちは口を揃えて、エキストラの演技が素晴らしいと言う。彼らは本当に泣き、本当に笑い、自分の言葉を話し、生活の様子もありのままである。この数千のエキストラは皆、伯延鎮の庶民である。

監督が彼らに要求したのは1つだけであった。「総理は今日この地を離れます。あなた方は総理を見送りに来たのです。どのように総理を見送りますか」。他に言葉はいらなかった。彼らが総理に寄せる深く真摯な思いから、プロの役者たちも学ぶほどであった。

この物語の最も重要なカギは「真実を語る」ことであろう。陳力監督は文献で、本当のことを話しているのは張二廷だけで、他の人々は党中央に迷惑をかけてはならないという理由で本当のことを言わなかったのだと知った。

伯延鎮は革命根拠地であり、劉鄧大軍(中原野戦軍)から邯?蜂起まで、多くの村人が戦場へ送られ、男性をすべて亡くした村もあった。自然災害のとき、当初から彼らはそのことを総理に隠した。戦争の時に比べれば飢餓のほうがまだましだと思ったのだ。

彼らが真実を話さなかったのは、人に害を与えるためでも、恐怖からでもない。陳力監督は、中国人は伝統の中で、事が起きた時に人を思いやるという貴い道徳意識を育んでいたのだと知った。

 

真 味

陳力監督の作品は観賞性と文芸性に富んでいる。彼女は多様な文化的景観を用いて作品に含蓄をもたせることを得意とし、それによってテーマを深めている。例えば、彼女は民族的なものを表現することを好み、現地の歴史文化を描き、人物の喜怒哀楽をその中に解放する。

この作品では、現地の落子戯(地方劇)、民家、?麺などが登場する。老人が自分のために用意しておいた柩(ひつぎ)を小麦粉に変え、総理に?麺をふるまうシーンがある。総理は老人を安心させるために?麺を食べ、老人の面子を守るため、伯延鎮を離れてから人に頼み自分のお金で柩を返している。

?麺は特殊な食文化であり、わかりやすくメッセージ性もある。また、落子戯は抗日戦争時、多くの役者が戦場へ行き、現地の公社の多くが民主政権のリーダーを支持していたという背景がある。映画では回想の形で歴史の細部を描いている。

周総理はかつて伯延鎮で、著名な文化人である房錦雲の故居を訪ねたことがある。伯延小学校は1907年に創立された尚徳小学校がその前身で、当時、房錦雲をリーダーとする郷土の有力者らによって創立され、蔡元培の筆による「育我菁莪」の扁額がある。周総理は伯延鎮で人の命だけでなく文化の血脈も救ったのだ。

総理と鄧穎超夫人が老眼鏡について話す場面は、ほのぼのとしていて老夫婦の仲の良さを感じさせ、生き生きとして飾り気がない。このシーンにも根拠はあるのだが、この地での出来事ではない。陳力監督が総理の生涯のエピソードの中から取り入れたものだ。

 

真 意

陳力監督は党員ではない。しかし、作品は「この映画を見て、国に希望があることを感じ取ってもらいたい」という1つの精神で貫かれている。そこで、配給元である華影公司の谷国慶董事長は7班に分かれたグループを率いて、各省、自治区、直轄市と連絡をとり、連夜残業して2570枚のDVDを作成し、全国3200余りの2K(デジタルハイビジョン)映画館に配給した。

撮影期間中のある日、制作クルーが食事に中華まんを用意した時のこと。エキストラは400~500人で、1人に2つの計算で多めに買ってあったが、それでも足りなかった。家に持ち帰る者がいたからだ。監督はスタッフを叱った。「彼らはエキストラとして来てくれているのです。家には学校に通う子どももいる。農作業もしなければならない。持ち帰って当然です。でなければ家族はどうして食事ができますか。たくさん用意して自由に持たせてあげなさい」と。村の人たちは「当時、総理も私たちにそのように接してくれました」と心を打たれた。

陳力監督は言う。「いまの中国人には確固とした価値観が必要であり、映画でそれを表現し伝える必要があります。そして、映画には革新と、大局を捉えて真実を追求することが求められます」。また、彼女は、真実こそ「主旋律映画(国策を反映した映画)」の生命線だと感じている。