仏教の根本的な戒律から見た焼身自殺事件

ここ最近、四川省チベット族区で僧侶の焼身自殺が何件か起きている。もともと「慈悲済世(いつくしむ心が世を救う)」「普度衆生(衆生をあまねく済度する)」を旨とする修行・布教者である僧侶が、「仏門無量の誓願を学び」、「衆生無辺の誓願を済度する」という広大な誓願を実践せず、無知で残忍で過激なやり方で、火をもって身を焼き、釈門信徒と絶縁する行為は人心を驚愕させ激怒させている。この生命無視の自殺行為は、仏教の核心である要義への重大な違反であるばかりでなく、仏教の根本的戒律を踏みにじるものである。

 仏教の教義・教理に照らし合わせて、仏門のすべての門弟は「三無漏学」を知恵として定め、釈迦の教戒を実践し、自他の身も心も浄化し、無上正覚(仏の悟り)を完全に整えなければならない。

この過程においては、慈悲心を感じ、悟りを開く道を行き、よい伝統である根本的戒律を必ず守るべきである。三無漏学の中では戒律がまず先にあり、戒律は仏法の根本である。規則に従い戒律を守ることが仏教徒の基本的な決まり事だ。

 どの戒律もみな「五戒」を基礎においている。五戒とは仏教の根本的な戒律である。いわゆる五戒とは、不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪淫・不妄語(もうご)・不飲酒である。五戒はすべての仏教徒が守るべき禁戒であり、自らの行動の道徳的規範というべきものである。

 不殺生は仏教の根本的戒律であり、絶対に背いてはならないものである。釈迦が定めた戒律は次のようにうたっている。「なんじ仏の弟子よ、もし自殺すること、殺人を教唆すること、方便で殺すこと、殺人を賛嘆すること、自殺に共感すること、そして殺すことを願うならば、それは、殺因・殺縁・殺法・殺業というものである。すべて命あるものを故殺(こさつ=故意に殺すこと)してはならない。菩薩は慈悲の心、孝行の心を常に持つことですべての衆生が救われるとしている。逆に自らのほしいままに殺生するものは、菩薩の波羅夷罪(はらいざい)を得る。殺人は殺生戒の一番重いものである」(『仏説梵網経菩薩戒本・第一殺戒』)。

 釈迦が制定した戒律とチベット仏教が強調して守る「四根本戒」は、「不殺生」つまり一切の命あるものを殺さないということだが、その戒律を破り殺人を犯すことは罪業として最も重い。殺人には、自殺・自己殺(人を殺す)・殺人教唆・人を使って殺す、などすべての殺人行為を含む。

というのも、理由のいかんにかかわらず、自殺・自殺の教唆・自殺の奨励など、いずれも仏教の根本的戒律・性重戒律に背いており、これが一番の根本的重罪であるからだ。だから、僧侶の焼身という残忍な手段での自殺は、自然と社会倫理に背くだけでなく、仏教の根本的戒律に背いているのである。仏教、特にチベット仏教は、殺生を禁止する根本的戒律があるだけで、これまで殺生・殺人・自殺の教義、さらには、人を教唆しての殺生・自殺の信条を何も主張してこなかった。

 四川省チベット族区の焼身自殺事件の発生後、一部の悪心を抱く者が、仏教の根本的戒律を顧慮することもなく、焼身自殺は「仏教の殺生の教義に背くものではなく、仏法の見解とも食い違っていないし、ましてや戒律を犯してもいない」、それというのも「焼身自殺の動機と目的には私利の汚れが微塵もないからである」とでたらめを述べている。

その動機と目的を語らずに、釈迦の戒めを承知していて釈明しているにすぎない。いかなる理由があろうと一切の命あるものは故殺してはならず、殺生は仏教の不殺生の根本的戒律に背くもので、波羅夷罪を犯しているのだ。

 同じ時に、別なたくらむ心のある者は、仏教の根本的戒律を問題にせず、ついにはこの類の悪行罪業を「最大の善行を養成しているのだ」とでたらめを言い、「世を挙げてめったに見ることができない高尚な行為」であるとした。さらにある者は、いかにも理由があるかのごとく雄弁に「焼身自殺は宗教行為そのもので、これをもって人々の菩薩に対する献身を明らかに示すものである」と語っている。しかも、「これは古代において確かに行われてきたことである」とも称した。

 生命を大切にし、自殺に反対することは、今や世界の普遍的価値となっている。特に宗教の分野では、教徒も信徒も生命を無視した自殺行為は既に邪悪の象徴であり化身であるとみなされ、世界各国はこれを許さず、断固反対している。

悪名高いカルト集団「太陽寺院」(=正式名称は太陽伝説国際騎士団。1994年10月にスイスカナダ集団自殺したとされ、子供16人を含む53人が遺体で発見された。教祖を含め信者は高学歴で社会的地位のある裕福な白人が多かったため、全世界に衝撃を与えた)は世界各国から非難された。

また、日本の邪教「オウム真理教」の教祖浅原彰晃は、「殺人には功があり、殺人には徳がある」とわめきたてたが、早々に歴史の恥辱の柱に釘で打たれた。必ずや汚名を後世まで残すことだろう。

宗教の過激主義に反対し、宗教を利用したテロや暴力活動に反対することは、世界中の共通認識である。僧侶の焼身自殺という生命無視の自殺行為も、世界中の善良な人々に唾棄され鞭打たれることになるだろう。

 ともあれ、「戒律あっての仏法、戒律なくして仏法はなし」なのだ。戒律は仏教を発揚し発展させていく基本である。根本的戒律を守ってこそ仏教の正法が永く続き、戒律を犯す行為を断固制止してこそ仏教の健康的発展が保証されるのである。