高倉健と中日関係の「蜜月期」


俳優・高倉健さん

2014年11月10日に俳優の高倉健さんが死去していたことが明らかになり、日本社会に激震が走った。同ニュースに、中国も悲嘆の声であふれている。中国では、1979年に「君よ憤怒の河を渉れ」(中国語題:追捕)が公開され、爆発的な大ヒットとなり、主演の高倉さんも一躍大スターとなった。高倉さんは、同年代の人々の記憶に深く刻まれ、特別な思い出を残してくれた。

日本で、高倉さんの代表作と言えば、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)だが、中国では、「君よ憤怒の河を渉れ」だ。日本で1976年に公開された同映画は、78年に中国語に翻訳され、翌79年に公開された。同映画で高倉さんは、暗殺されそうになる東京地検検事の杜丘冬人を演じ、その寡黙で男らしい姿が、改革開放(1978年)を実施したばかりの中国の人々の心を鷲掴みにした。そして、中国は、高倉さんや同映画を通して、日本や現代化された社会を知った。

当時、中国の人々の「君よ憤怒の河を渉れ」に対する理解や想像は、同映画の本来の意義をはるかに超えていた。当時、「日本」と「現代化」を重ね、多くの人が同映画を通して、日本のスタイルが中国に与える意義を考えていた。

当時の日本の映画は、改革後間もない中国にとって、現代化社会の窓口のような存在で、多くの人が感動を覚えた。巨匠・張芸謀(チャン・イーモウ)監督も当時、日本の映画の影響を大きく受けた人の一人だ。

張監督にとって、日本の映画は忘れられない記憶の一部となっている。21世紀に入り、高倉さんの影響を大きく受けて映画界に入った張監督は、自分の作品に主演として高倉さんを招待。日中合作映画「単騎、千里を走る(中国語題:千里走単騎)」(2005年)が製作された。当時74歳だった高倉さんは、高齢にもかかわらず、ずば抜けた演技力を見せ、シンプルなストーリーであるものの、見る人に大きな感動を与えた。

張監督は同映画で、自分の夢をかなえただけでなく、故郷に対する思いを表現し、1970年代の人々の感情を思い起こさせた。既に多くの成果を上げ「巨匠」と呼ばれるようになった張監督だが、今は改革開放後間もない頃とは大きく異なり、その時代に戻ることはできない。

1970年代と80年代は、ここ120年で、中日関係が最もよかった時代だろう。中日の政治家が、両国の関係を改善するために尽力していた。1985年、中曽根康弘総理(当時)が、中国の人々が靖国神社参拝に対して反感を抱いていることを知り、参拝を中止したことを、中国の人々は覚えている。中曽根総理の行動と決断は、最近の日本の政治家とは大きな差がある。

今の中国において、高倉さんらほどの影響力や集客力を誇る日本人はほとんどいない。高倉さんの死は、一つの時代の終わりを告げているのかもしれない。そのことを考えると、何かさびしい気持ちにさせられる。

ここ数年、中日関係は悪化の一途をたどっている。今の中国と日本は、それぞれ新たな時代に突入している。高倉さんは、日本のスターとして、中国でも大きな支持を得た。女優の中野良子さんや栗原小巻さんらは、自分の仕事に打ち込み、その責任感で、中日両国の国民の心をつないだ。高倉さんの世代は、中日両国に貴重な財産を残してくれた。これこそが、民間の力、文化の力だ。