劉甚秋
誤解を解き、日中の架け橋となる

劉甚秋氏は河北省香河県の出身、1991年に北京大学日本語学科を卒業した後、北京大学経済学院、日本の野村証券、株式会社光通信に就職し、光通信で業務部長を担当した後に起業し、現在は日中経営者協会常務理事、北京大学天公国際投資株式会社社長である。さらに、早稲田大学商学部修士、長江商学院EMBA学位を取得している。1960年代生まれで、80年代に教育を受け、90年代のリスクとチャレンジを担い、21世紀の舞台で活躍するというのは、この世代の成功者のキャリアである。なかでも劉氏は、在日20年余りの一華僑として、「チャイナドリーム」めざして奮闘してきただけでなく、日中間にある誤解を少しでも取り除き、理解しあい協力関係を築いて、遺恨を少しでも減らすよう努力している。

 

人生の師との出会い

1980年代は日中関係が非常によい時代であった。改革開放が始まったばかりで、中国の日本研究ブームに乗り、政治学科や日本語学科は北京大の人気学科だった。専門の選択について語った時、劉氏に北京大生の持つ理想主義が感じられた。「1950年代の初め、日本のGDPは中国と同じだったのに、なぜ80年代に世界第2位になったのか? これが日本を学ぶ者の初志でした」。

劉氏は日本語学科の授業以外に、経済学の講義を多く聴講し、経済学の基礎を身につけた。卒業の時に、ちょうど北京大経済学部で1名の日本経済研究教員の募集があり、2つの学科を同時に学んだ劉氏は経済学部に採用された。教えて2年も経たないうちに、早稲田大学が北京大学で大学院の奨学生を募集することになり、当時の羅豪才副学長が劉氏を推薦した。こうして、はるばると海を渡って、日本で生活を始めることになった。

日本で人生の師ともいえる人物に出会った。当時の野村証券副社長であった斉藤惇氏である。修士終了後、劉氏は斉藤氏に紹介されて、日本の金融界で「黄埔軍官学校」とも言える野村の国際金融部に就職した。主として中国企業の東京市場上場と日本円債券の供与業務であった。ちょうど事業の創業期に、アジア金融ショックに直面し、債券や海外上場はたちまち「ジェットコースター」状態に陥った。斉藤氏は四面楚歌の危機下で、劉氏にIT産業に目を向けるよう提言した。こうして彼は日本のITトップ企業である株式会社光通信に推薦され、事業部長に就任、新たな人生へのターニングポイントとなった。

「私は人生の中で出会った先輩たちに感謝しています。それは中国人に限らず日本人でも同じです。いつも重要な決断をさせてくれました」と、山あり谷ありの人生を万感の思いを込めて語ってくれた。

 

中日ビジネスを

橋渡しする「リーダー」

創業の際には、駐日中国大使館にずいぶん支援してもらったと話す。大使館商務処は定期的に中国国内の地方政府を日本に招き、紹介してくれたり、商談を斡旋してくれた。これによって、劉氏の日本と中国の2カ所の人脈が立ち上がった。三菱重工、日立、富士通など有名日本企業のソフト開発プログラムを手中にした後、日本の企業と共同で「日中経営者協会」を立ち上げ、中国と日本の民間企業の交流に尽力した。日本政府へサポートし、中国企業に対する投資の優待条件を申請した。他方ではまた、日本企業を中国へ赴かせ、国内に投資し工場を造らせた――日立は中国で多くの支社を設け利益を得ている。このほか彼らは華聯、超市発など中国の零細企業を日本へ招いて投資させたり、さらに地方政府の日本の環境保護プロジェクトに対する研究開発において、大きな成果を得ている。

こうした過程においては、中日間の理解を深めることが重要である。先輩の華僑たちは日本企業に中国のことを紹介して、誤解を解くために努力してきた。東日本大震災が発生したとき、協会の中国企業代表は日本政府に義捐金を贈っている。

「当然ながらさまざまな原因で、中日双方のユーザーが相手の投資環境に不信を抱くのはままあることで、協会の運営を難しくしました。でも、小さな障害で大切なことを止めることはできませんし、不信の根源は相手に対する理解不足にあるものです。大使館と政府の斡旋が必要ですし、さらに深い交流と相互信頼が必要であると思っています。我々中国の経営者は日本で、こうした方面で努力しています」と、劉氏はきっぱり語った。

 

中日交流を

サポートする「庭師」

光通信にあって、劉氏は日本の先進的IT技術を用い、中国からIT技術の人材を導入し、しっかり養成した。この方法を自分の会社「北大天公」にも導入した。「国内のIT人材を集めて養成することは、決して人材流失にはなりませんよ」と、笑いながら言った。「彼らは技術を修得すると、大部分が帰国して活躍しています。現在、国内IT産業の指導的人物のほとんどは、その時代に養成した人たちで、私には自慢の弟子がたくさんいます」。

業界外の事柄だが、劉氏は中日間の若者の交流を重視している。「我々の青年時代には、交流のチャンスがありませんでした。次の世代にも交流のチャンスを失わせることはできません」と語る。

北京大学の李岩松副学長と協定を結び、毎年自らが出資し北京大から派遣される学生たちを日本に短期研修と参観に招き、肌で日本を感じ学ぶようサポートしている。劉氏は「彼らが将来の日中関係の新しい両腕になると信じていますよ」と話した。

近年の厳しい日中関係が民間の関係に波及するわけではなく、日本の業界や民間の中国に対する認識は、政府と大きな差があり、日本の人たちはほとんどが中国を理解したいと思っていると劉氏は考えている。

「中日間の協力もよいし、競争もよいですが、どれも相手を理解し、違いを正視することが必要です。もっと多くの人が冷静に中日関係を見られるようにしたいです。これが『庭師』としての私の仕事ですが、私は楽しみながらやっていますよ」。