郭沫若は日本で『創造』を準備

1914年、郭沫若(1892—1978)は日本に留学し、東京第一高等学校に入って医学を学んだ。勉強はいうまでもなくよくでき、非常に頭がよかった。しかし、中国から伝わってくる悪いニュースに心が落ち着かなかった。

1915年、日本は「21カ条」を突きつけて、5月7日に最後通牒を下した。中国国内は沸き上がり、在日中国人留学生も非常に憤慨した。郭沫若は祖国がこれほどまで屈辱を受けているのに、自分はこんなところにいられないと思った。「男子がペンを捨てるのは尋常なことで、戦場の泥に帰する」と壮烈な詩を書いて、反日運動のために荷物をまとめて同級生と帰国した。

しかし、上海に着くと袁世凱はすでに「21カ条」を承諾していて、やむなく日本に戻って勉学を続けた。

1916年8月の初め、郭沫若は佐藤富子と出会って、愛し合うようになる。1918年に長男が生まれた。この時、九州帝国大学医学部に入学していた。

一月にわずか30円の留学生助成金しかなく、勉強し家族を養わなければならないのは大変なことだった。家族で質屋の倉庫に住んでいた。医学生は高価なドイツ語の本を買わなければならない。夫人はできる限り生活費を節約し、昼ごはんは焼き芋ですませることもしょっちゅうだった。たまに郭沫若に原稿料が入ると、一家で「駅弁」(ご飯、焼き魚、野菜)を食べることができた。家賃が安いところがあれば、よく引っ越しをした。可哀想なほど家財もないので、引っ越しも簡単だった。

貧しい生活でも、妻の思いやりと労りあう結婚生活は、郭沫若に作詩の思いを奮い起こさせた。解剖の授業で死体をバラバラにする時でも、創造力を妨げることはなかった。「解剖だ。解剖だ。はやく、はやく。あの陳腐な毛と皮を剥がせ。あの役立たずの筋骨をはずせ」。

1919年、五四運動が発生した。郭沫若は同学の夏鼎禹、銭潮と話し合って、夏社という通信社を設立し、中国を侵略する言論や情報を翻訳し、日本の侵略に反撃するための文章を書いて刷り、中国の学校や新聞社に送り国内の愛国運動に呼応しようとした。

郭沫若は編集責任者に推薦された。その後、『同文同種辨』,『抵制日貨之究竟(訳注:日本製品のボイコットについて)』などが上海の雑誌『黒潮』に掲載された。『時事新報』は『抵制日貨之究竟』を社説として用いている。

五四運動後、郭沫若は新しい文芸誌を編集することを決める。思い立ったら実行で、郁達夫、張資平、何畏などと相談して、書名を『創造』にした。1922年5月1日、季刊『創造』の創刊号が出版された。その後、天下の創造社として歴史の舞台に名をとどろかせる。

1923年3月に郭沫若は卒業した。しかし、この時、心はすでに文学に傾き、医学を捨てて文学の道を進もうと、妻と3人の息子をつれて上海に帰ることを決心していた。