日本の戦略における中国の位置づけ

フランス大統領のオランド氏は当選したその日に、暴風雨を冒してベルリンへ飛んだ。大統領に任命された者の重要な任務はドイツを理解することである。ヨーロッパの二大国はこのように仲睦まじい。アジアの二大国である中国と日本に、こんな日がいつ来るのだろうと筆者は考える。

今年は中日国交回復40周年で、もとより祝賀し未来を展望する重要な年である。しかし続けざまに立つ波風が、2012年に影を落としている。実のところ、過去数年間に中日関係が難局から脱したことはなく、経済関係は緊密になっているが、政治や社会の関係は逆に後退傾向にある。

このような日本の対中国政策の主要な誘因は、中国の発展が日本人の心理的なバランスを失わせていることであると、多くの人が考えている。確かに今まで中日両国が同時に強大であった時代はなく、100年来の、日本が強く中国が弱いという局面が逆転し、この力関係の変化が日本の中国認識に変化をもたらしていると言えよう。

大切なのは、日本の対中政策をしっかり認識しなければならないことだ。そのためには、冷戦後20年の日本の対外戦略を内政と社会などの角度から多角的に分析して、その全貌を見ることである。

第一に、冷戦期に日本の対外戦略構想が試練にさらされなかったことが、冷戦後、長期にわたり新対外戦略のコンセンサスを得られなくさせたと言える。第2次世界大戦後、日米同盟が日本外交のすべてを支配し、対米外交至上主義と「吉田路線」が日本の安全保障と経済繁栄をもたらした反面、アメリカの傘下に、日本は独自の戦略思考とグローバルな発想を持つチャンスを失った。

冷戦後、二大陣営の対立が解体し、中国など新興国が国際社会に進出し、日本外交は大きく変化した。しかし、その戦略構想は不充分で、中国をどのように位置づけるかの明確な共通認識を持てなかった。

しかし、冷静な日本の戦略家たちは、中日関係を犠牲にして「吉田路線」と日米基軸を堅持することは、日本の長期的な国家利益に合わないと認識している。

第二に、日本では自民党の一党支配から民主党政権へと大きく変化し、選挙や執政の情況が変わった。これより先、1993年に自民党党内の主流派政治が日本内外の外交政策を主導する局面が終わった。政治家の政党や派閥に対する依存度が低下し、直接選挙民の心をつかむ必要性が増大した。

「バブル」崩壊後の混迷が、日本の若い政治家に、内政で業績をあげるために、外交上の失点を減らさなければならなくした。外交上の保守と強硬姿勢は政治的な安全を、大きな精力を内政に向けることを意味している。

これが中日関係に犠牲を強いた要因だと、ある程度は言えよう。将来、日本の国内政治の転換が完了する頃には、政治家たちは多くの精力をはらって中長期的な対外戦略を考えるであろう。

第三に、民間外交が脆弱でデリケートになっているが、中日友好の社会的な基盤は基本的に変わってはいない。しかし、冷戦後20年、日本経済は発展のパワーに欠け、政治決断は緩慢となり、首相交代が頻繁に起こり、民衆は希望を持てなくなっている。「経済大国」の自信を失うという混迷のなかで、対外関係に対する過激な観点と報道に惑わされやすい状態にある。

当然ながら、われわれは戦後60年以上にわたり、日本社会が安定してきたことを肯定しなければならない。原発反対や核兵器廃棄などの運動は、人々に戦後の平和主義思潮を想起させ、世論調査の結果が人々を失望させても、日本国民の中で中日友好を願う人が大多数であることを信じることができる。

当面、日本は対外戦略から国内政治と社会への重大な転換期を迎えている。日本にとっては、国家のアイデンティティーを作り変える難しい過程であり、また国家目標を新たに再建しようとする時期でもある。

こういう転換期に、中日関係は厳しい試練にさらされている。日本の政治家は、長期的な観点に立ち、中国をしっかりと位置づけた戦略を立て、できるだけ早く国内のコンセンサスを達成しなければならない。