無名の一料理人だった彼は20年前に来日し、大阪でコックの見習いを始めた。今では6つの中華料理店をオープンさせた彼の創作スタイルは、中華料理と日本料理を融合させ、料理スタイルの概念を変革し、大阪に「揚州料理」を旗揚げした。そして、日本人客の絶大な支持を受け、中華料理ブームを巻き起こした。彼こそ江蘇省揚州市出身の中国料理高級技師、李少華である。
20数年前、大阪に来たばかりの頃のことを、李少華は今でも感慨深く思い起こす。日々の生活は決して楽ではなかった。
言葉の壁以上に彼の前に立ちはだかったのは、日本の料理界の厳しい階級制度だった。様々な重圧のもと、彼は苦しい修行を着実に積んで初めて、この世界で通用する料理人になれるのだと気付く。
数年間の苦闘を経て、李少華は店長の信頼を勝ち取り、新しい店の料理長に推薦された。しばらくして彼は気付いた。日本の料理人は、食材の新鮮さや産地にはひどくこだわるのに、スタイルの刷新が全くなされていない、と。数十年間全く変わっていない料理もある。“型破り”な李少華は新しい料理スタイルの思索に精力を注ぎ始めた。
彼は得意の淮楊(わいよう)料理(中国五大料理の一つ。江蘇省から浙江省北部一体で発展)と日本料理のスタイルを融合させ、『楼中楼』本店の定番料理以外に、数々の新しいメニューを創作した。
李少華の作る日本料理は、彫刻装飾が美しいだけでなく、色・匂い・味すべてに優れ、すぐに日本人客の胃袋を捉え、日本の料理人やレストランオーナーたちからの一致した好評を得た。
新メニューが好評を博したことで大きな自信を得た李少華は2002年、大阪に1軒の中華レストランをオープンした。自分の店で彼はさらに自由に料理の腕前を発揮し、淮楊料理の美しい彫刻装飾と、美味しい日本料理をさらに融合させた。しかし、経営不振により1年後破産を余儀なくされた。
失敗は成功の母という。数年間の研究と考察の末、彼は態勢を立て直し、1カ月に2軒の中華レストランをオープンすることに挑戦した。さらに、日本人客向けに独自の揚州包子(パオズ)を開発した。
「日本人は包子を食べたことがありません。売り出すと大阪中で揚州包子が評判になりました」と彼は回想する。当時、毎日のように日本人客が行列を成して彼の包子を買いに来たという。
揚州包子はほんの小手調べで、李少華のつくり出す独特の料理スタイルは、淮楊料理の細かな細工と日本料理の栄養を兼ね備えていると、日本で高く評価されている。
紆余曲折を経て、李少華はついにその巧みで完璧な腕と、類まれな革新的精神で、日本人客を虜にし、大阪に足場を固めたのだ。今、彼の心は故郷にある。発展し続ける飲食事業を中国で展開し、故郷の揚州に日本料理店を開きたいと考えている。
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