島名から見る釣魚島の主権の帰属

日本は先日、一部の無名の島々に命名すると宣言したが、その中になんと中国の領土である釣魚島付近の島が含まれていた。

 釣魚島とそれに付属する島々は中国が最も早く発見、命名、利用、保有するとともに海上防衛区域に組み入れたのだった。1372年以降、中国の明、清二代の冊封使(勅書等を携えた使徒)は琉球に赴く際、釣魚島を必ず経由する航路上の目印としていた。1403年には中国の海上航路に関する書物『順風相送』に釣魚嶼の記載がある。1719年に琉球に赴いた清朝の冊封使・徐葆光は『中山伝信録』の中で、その辿った航路が?安鎮から五虎門へ出、鶏籠頭を取り、花瓶嶼、彭家山、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼を経て、姑米山、馬歯島を取り琉球の那覇港に入ったと記している。1971年12月、中国外交部は「釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などは台湾に付属する島々であり、それらは台湾と同じく、古来中国の不可分の領土の一部である」という声明を発している。

 日本の歴史学者、故井上清は生前、「釣魚島などの島々は遅くとも明代以降は中国の領土であり、この事実は中国人だけでなく、琉球人、日本人も確かに認めている」と指摘している。1708年、琉球の学者、程順則は『指南広義』という書物に釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼を明確に記載し、さらに姑米山(久米島)は「琉球南西方界上鎮山」と記していることは、釣魚島とそれに付属する島々が中国に属すると認めているに等しい。かつて、日本人の高橋庄五郎も「釣魚島などの島名は中国が先につけたもので、その内黄尾嶼、赤尾嶼など固有の島名は台湾に属する花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼などと同じで紛れもなく中国名である。日本には『嶼』を用いた島名はない」と指摘している。

 日本政府は、釣魚島は沖縄県に属するとしている。しかし、日本に併合される以前、琉球王国の計36島の中には釣魚島はまったく含まれていない。日本人の林子平は1785年、『三国通覧図説』に琉球36島図を載せているが、釣魚台、黄尾山(黄尾嶼)、赤尾山(赤尾嶼)は別の色で区別されている。1805年の日本の「琉球36島図」でも琉球の36島をひとつの丸で囲み、中国台湾省の釣魚台、黄尾山、赤尾山と花瓶山、彭佳山は並べて描くとともに、わざわざ丸印を付けて琉球36島と区別している。

 日本には釣魚島を盗み取るために、島名を改ざんした歴史がある。中国の学者、鞠徳源の考証では、1838年前後に清朝の冊封使を接待する担当の琉球人が、間違って那覇西部近海の「慶良間列島」の中の「久場島」と「久米赤島」の名前を黄尾嶼と赤尾嶼に当てはめたために、当時の清朝冊封使を混乱させただけでなく、1885年に日本の明治政府が現地調査を行い、釣魚島を要求することにも利用されたという。

しかし、当時、日本政府の密命を受けて釣魚島を調査した沖縄県令の西村捨三でさえ、この行為は不適切だと考えた。彼は調査報告の中で「久米赤島、久場島及び魚釣島は古来沖縄県で称する地方名」ではあるが、これらの島々は「中山伝信禄に記載された釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一の島ではないかとの疑いを持たざるを得ない。もし同じ場所であるならば、既に旧中山王を冊封する清国の使いの船が詳細に述べているだけでなく、それぞれに名称を付け、琉球への航海の目標としていたことは明らかである。それ故に今回の大東島と同様、調査して直ちに国標を立てるのはいかがなものかとの懸念を抱く」と記している。日本語では動詞は目的語の後に置かれるため、釣魚島は日本では「魚釣島」と改称された。だが日本の一部の公文書や地図では第二次世界大戦後まで依然として黄尾嶼、赤尾嶼など中国の島名を使用していた。

 日本が釣魚列島を「尖閣列島」と改称したのは、『英国海軍水陸志』の海図にある「Pinnacle Islands」を「尖閣群島」と翻訳したのが始まりで、「尖閣列島」と称するようになったのは1900年になってからだ。中国の命名より少なくとも500年ほど遅い!釣魚島の主権問題において、島名の改ざんは無益な徒労というだけでなく、事実を隠そうとするほど却ってぼろを出し、小細工を弄するほど自滅を招くことは歴史が証明している。