「日本満蒙開拓団」の慰霊碑建立に70万元

最近、「黒竜江省方正県が日本企業の投資を誘致するために70万元を投じて中国侵略日本軍の慰霊碑を建てる」と中国版ツイッタ―「微博=ウェイボー」に書き込まれ、ネット上で大変な議論になっている問題で、8月2日、黒竜江省ハルビン市方正県の洪振国副常務県長は取材に応じて、次のように回答した。

県内にはすでに「日本人公墓」があり、その後、方正県で残留した日本人孤児が「中国人養父母公墓」を「日本人公墓」の傍に建立した。この二つの「公墓」を中心に現在の「中日友好園林」が整備されている。

本年、方正県はこの二つの「公墓」に亡くなった方の名前を刻んだ「日本開拓団民亡者名録」と「中国養父母逝者名録」それぞれの碑を建立した。序文で碑の建立の背景と目的を説明している。

「日本開拓団民亡者名録」の碑の序文には次のように記されている。

「1945年日本が敗戦し、終戦の混乱の中で方正県に足止めされていた満蒙開拓団員約15,000人が帰国しようとしていたが、5,000人余りが寒さや飢えなどで亡くなり、当地で簡易に埋葬された。20年ほど経って荒野に埋葬されたことを忍びなく思った方正県民は遺骨を収集した。1963年、周恩来首相の許可を得て「方正地区日本人公墓」を建設し遺骨を納めた。1984年、「麻山地区日本人公墓」も当地に移設された。「公墓」には氏名の不明な者が数多くいたが、関係者らの尽力によって一部は判明していた。そこで、氏名を刻み残すことにした。

その目的は、一、後世の日本人に、先人がこの地に永眠していることを忘れさせないため。一、人類の善なる愛と人間の本性を示すため。一、前事を忘れず後事の師とし、戦争がもたらす害悪を反省し、平和の尊さを明示するため――ここに碑を建立し、後世への警鐘とする」

「中国養父母逝者名録」の碑の序文には次のように記されている。

「1945年秋から冬にかけて、敗戦の混乱の中、日本満蒙開拓団員は方正県から撤退していったが、大勢の日本人の幼児が取り残され、孤児となった彼らの衰弱した身体では飢えと寒さをしのぐすべもなかった。方正県の人々は孤児らに対し、黄帝・炎帝から伝承されてきた礼儀を持ち、敵国の子どもといえども見捨てることをしなかった。何年もの歳月で、苦労を耐え忍び、わが子以上に育て上げ、離れがたい心を抑えて子どもたちを日本の故郷に送り帰した。「烏の反哺の孝、羔羊の跪乳の礼(鳥ですら育ててもらった恩には報い、羊は乳をくれるものの前に跪く)」の如く、養育の恩に報いるため、残留孤児であった遠藤勇氏は中国人養父母の公墓を設立した。養育の功労と憎しみを乗り越えた徳を称えるため、養父母の名をここに刻み、後世の人々に語り継ぐ」

洪振国副常務副県長は語る。「歴史を鑑(かがみ)とし平和を大切にしなければならない。方正県の二つの公墓建設には、抗日戦争終結時の特殊な事情があったのである。我々が今回二つの碑を建立した目的は、この時期の真実をより正確に明らかにするためであり、さらには、後世の人々にファシズムの罪悪を知らしめ、中華民族の人道主義の精神を知ってもらいたかったからである。そして、歴史の教訓をしっかりと汲み取り、世界平和を永遠に大切にしてもらいたいと願っている」