金庸のペンに導かれて景勝地を行く

『金庸地図』のまえがきにこうある。「どれほどの人が『天龍八部』を読んで大理を訪ね、どれほどの人が麗江の木王府を『鹿鼎記』に出てくる沐王府と勘違いしたであろうか? 金庸は20世紀、観光業界で最も成功した営業マンと言える。金庸はつねに祖国の山河を題材にして人を引き寄せ、中国の観光業がまだ未開発であった70年代に、武侠小説の中で、作品中の主人公たちを至る所へ向かわせ、多くの観光ルートを開拓してきた」。

風花雪月 千嬌百媚

金庸の筆による雲南大理は自然が秀麗・壮大で、神秘的色彩を帯びている。壮大な?西の飛瀑、神秘的な無量玉壁、吼えたけるように流れる瀾滄江、迫力ある善人渡橋。これらはみな『天龍八部』の背景となっている。大理の蒼山、?海、蝴蝶泉が瀟洒な王子・段誉と聡明勤勉で美しく鷹揚な五朶金花を育てた。

多くのストーリーが大理で生まれた。『天龍八部』のロケ地はこの小説が大理に与えた影響を物語っている。南紹国の痕跡はほとんど残っていないが、崇聖寺の三塔は、輝かしい過去を忘れてはならないと人びとに訴えているようだ。小説中の侠客たちの姿は見えないが、のどかで穏やかな大理は今も多くの人びとに愛されている。ここでは喧騒から解放され、少数民族の純朴さと善良さが来た人たちの心を掴む。

大理を訪れた人によれば、大理の古城には新しい店舗が並び、平遥古城のような古めかしさも、麗江のような奥深さもないと言う。しかし、大理の血肉も麗江の肉体も残っていると言う。蒼山を背にし?海に面した大理古城では、男性は阿鵬、女性は金花と呼ばれる。大理の四季は絵のように美しく、風、花、雪、月の四景が最も有名で人を引き付ける。この四景をなぞなぞにして、白族の人びとが代々伝承してきた詩がある。

虫入鳳窟不見鳥(風)

七人頭上長青草(花)

細雨下在横山上(雪)

半個朋友不見了(月)

大理古城の観光には、レンタルサイクルが良い。?海に沿って二通りのルートがある。わかりやすいのは、?海を取り巻くサイクリングロードで、美しい風景と特徴ある小さな街が続く。?海の周辺で焼き魚を食べたり「風花雪月」ビールを飲んだりもできる。もう一本は古城から大麗路に沿って行く道だ。およそ20分間自転車を走らせると、西城尾村の標識があり、右手の舗装路を行くと?海が見えてくる。その後、北へ9つの村を通り抜けると喜州に到着する。これらの村々には歴史情緒漂う石橋、祠堂、舞台、漁港が点在し、じっくりと味わうに値する。

 

天下の九塞は雁門から始まる

雁門関は、雁門塞とも西隆関とも呼ばれ、山西省代県の北15kmにある。金庸の小説『天龍八部』では、雁門関は悲劇の始まりの地である。英雄・?峰の父母がここで中原群豪に殺される。この出来事は全編を貫く重要なロジックとなり、?峰の悲劇はここから始まり、雁門関外の懸崖での自殺で幕を下ろす。

?峰の眼に映る雁門関は、高く険しい山肌にでこぼこ道、この上なく危険な場所であった。その峰は渡りの雁にも越えられないため、雁は2つの峰の間を飛び抜けていくことから雁門と呼ばれる。関からくねくねと峰へと進み四方に眼をやると、繁峙山と五台山が東に聳え、寧武の山々が西に連なる。南には正陽と石鼓、北には朔州と馬邑が見える。丘陵が果てしなく続き、冬枯れの林が漠々と広がり荒涼としている。山道から数歩踏み出せば下は深い谷で、雲霧に覆われ谷底は見えない。

車で山?県を過ぎ南東へおよそ30分走ると、縦横に伸びる峡谷、起伏のある山々が見える。山中には広武という古い村があり、そこには漢の時代に雁門関を守った将校・兵士たちの無数の遺骨が眠っている。

同大路に沿って進むと、雁門古険道と呼ばれる峡谷に入る。両側には怪石が重なり、尾根が幾重にも連なっている。尾根を登ると、険しい山の麓、勾注山にあぐらをかくが如く勇壮な雁門関が眼に飛び込んでくる。雁門関を中心に連山の起伏が広がる。蜿蜒と連なる尾根の長城は、東は隆嶺、雁門山を臨み幽燕に至る。西は隆山を背に黄河まで続く。明の時代に関城をここに移し関を再構築した。

今の雁門関の関城は周囲が2里(約7.8km)、城壁の高さは1丈8尺(約5.5m)、石畳みが敷かれ、屋根には煉瓦が積まれ、門は3つある。東門には楼台がある。雁楼と呼ばれ、「天険」の石額が掲げられている。西門には楊六郎廟が築かれ、門額は「地利」、北門は「雁門関」と大きく刻まれた門額だけで、左右に石に刻まれた「三関衝要無双地、九寨尊崇第一関」の対聯がある。

時移るも、桃花は変わらず春風に笑う

『射雕英雄伝』に「桃花影落飛神剣、碧海潮声按玉?」とある桃花島は東海に浮かぶ島である。中国国内で広く知られ、浙江省舟山群島の南東にある。普陀山や朱家尖島と海を隔てて隣接し、沈家門からはおよそ14㎞にある。

『射雕英雄伝』で桃花島は、楊過・武氏兄弟と郭芙が共に子ども時代を過ごした場所であり、黄薬師、周伯通、洪七公、欧陽鋒、江南七怪、楊過、郭靖、黄蓉などの主人公たちもみな、この島と関係がある。初めて桃花島の土を踏んだ時、郭靖は驚喜と胸騒ぎを覚え、黄蓉は得意げであった。この時すでに二人のよしみは結ばれていたのだろう。ここは桃源郷であり、黄薬師のような高人もここで平穏に暮らしたいと望んだほどの素晴らしさである。

小説によって島は有名になったが、他にも故事がある。秦の時代、安期生という仙人が皇帝の勅令を拒み、南の桃花島へ隠居し不老不死の薬を研究していた。ある日、酔って墨を山の石にこぼすと、まだらの桃の花の模様になり、この石を「桃花石」、山を「桃花山」、島を「桃花島」と呼ぶようになった。

寧波南バス停で49元(約800円)支払い、バスに2時間揺られて舟山連島大橋を過ぎると舟山沈家門に到着。沈家門で再び2元(約33円)支払い、1番の路線バスに乗ると、終点の?頭に到着する。桃花島行きの船の切符はここで売っている。観光客は事前に桃花島行きの船の時刻表を手に入れ、行程を調整しておくことが肝要である。9時発の高速艇に乗ってもよいし、10時半発の普通船を待つのもよい。船旅には趣がある。雲や海を眺め、時折カモメが飛ぶ。桃花島が近づいてくると思わず興奮してくる。

40分ほどで到着。島は小型バスで遊覧もできるし、サイクリングで島めぐりもできる。見どころとしては、射雕撮影所、塔湾金沙景区、桃花峪景区、安期峰景区がある。道路状況は平坦で良好である。射雕撮影所の中には新版『天龍八部』の撮影に使われた多くのセット、郭靖が馬を留めた臨安街、黄薬師の住まい、黄蓉の繍楼(未婚の娘の部屋)、南帝禅寺などがある。塔湾金沙景区ではモーターボートなど各種水上レジャーも楽しめる。また、桃花峪景区は弾指峰、桃花園、広大な東海と自然の景観に富んでいる。桃花島の最高峰は安期峰で、先人の安期生に敬意を表して名付けられた。海抜540m、舟山群島で最も高い。

堅固な古城に行き交う侠客

襄陽の陥落は難事である。『射雕英雄伝』や『神雕侠侶』には度々襄陽が登場し、郭靖、楊過といった人物が絶えず出入りする。歴史上、この堅固な古城は、その特殊な地域性ゆえ、古代の戦場として重要な地位を占め完璧な要塞を誇った。城に巡らされた堀は幅が180mあり、堀の外にも幅10mほどの環壕がある。襄陽の背後には滔々たる漢江が流れ天然の塹壕となり、南と南西には?山、真武諸山がひかえる。甕城は高さが10m、厚さが1.5mある。武将はこの地で戦えば英雄となり、遺骨は手厚く埋葬される。抗日戦争時代、張自忠は嚢陽を守って犠牲となり惜しまれた。

嚢陽の古い城壁を北西へ進むと間もなく夫人城がある。前秦と抗戦し苻丕を退けた東晋の韓夫人を記念したものである。明代初期、小さな城を増築し、後世補修を繰り返した。「夫人城」の石額が掲げられ、「襄郡益民勝迹、夫人城為最」の碑が建てられている。

襄陽古城から漢門に向かって進んで行くと北街がある。北街は襄陽城の中心である十字街の北に位置し、北は古城壁に連なり南は昭明台と隣接する。古城を南北に貫く中軸線上に位置し漢江にも近いという利点から、北街は唐・宋の時代から嚢陽城の中心街区とされてきた。鄂西北地区の明・清時代の建築を模した建築群が主で、馬頭壁や飛檐には趣があり、外構も古風質朴、優美である。北街は商店街になってしまったが、両側の馬頭壁を見ると古代に戻った感覚を覚える。

北街は昭明台の襄陽博物館まで伸びている。博物館は嚢陽古城の中央に位置し、南朝の昭明太子・?統を記念して建てられた。歴史書には「楼は郡にあり中央を治める。三層から成り、南面す。鐘鼓を以って翼と為し、方城として名を馳せる」とある。昭明台を下り、道路を横切り真っ直ぐ進むと緑影壁横丁に着く。その中に嚢陽王府はあるが、何といっても最も名高いのは巨大な緑影壁で、北京の北海公園の鉄影壁、山西大同の瑠璃九龍壁と併せて中国影壁三絶と呼ばれる。照壁は緑泥石片岩で造られ全体が濃緑色をしているため「緑影壁」と呼ばれる。構造は個性的で素朴であり、その彫刻技術は巧みで完璧である。建築の精巧さは国内随一であり、完全な保存状態で残る唯一の石の彫壁である。

 

金庸 略歴

金庸(1924年3月10日~ )、男性。現代著名武侠小説作家、ジャーナリスト、企業家、政治評論家、社会活動家。中国作家協会名誉副主席。『中華人民共和国香港特別行政区基本法』の主な起草者の一人で、香港の最高栄誉勲章である大紫荊勲章を受章。華人作家一の富豪。元浙江大学人文学院院長。

本名、査良鏞。1924年3月10日(旧暦2月6日)浙江省海寧市生まれ。1948年香港へ移住。上海東呉大学法学院卒。香港『明報』創始者。武侠小説に「飛雪連天射白鹿、笑書神侠倚碧鴛」作品の頭文字をとって対聯式に詠んだもの)および『越女剣』の15作がある。

 

資料

金庸小説は、古典武侠小説の神髄を継承しながら独特のスタイルと変化に富んだあらすじを創り出し、描写が細やかでかつ人間性や気高さを強く打ち出した新しい武侠小説として、大いに人気を博した。多くの文壇才子や読者が書評を書き、「金学」研究の風潮を形成した。金庸小説はさらに、テレビドラマ、ゲーム、マンガ等にもなっている。

金庸はかつて自身の作品の頭文字をとって、「飛雪連天射白鹿、笑書神侠倚碧鴛」と一対の対聯に詠んだ(『鹿鼎記・後記』)。1970年の『越女剣』は金庸本人がよしとしなかったために対聯に入っていない。

1955年の『書剣恩仇録』から1972年の『鹿鼎記』、十五部の長、中、短編小説を創作。括弧内は創作開始年。

1.書剣恩仇録(1955年)―初の小説

2.碧血剣(1956年)

3.射雕英雄伝(1957年)―名作となる「射雕三部作」の第一作、読者から「侠文化の謳歌」との評価を受ける。

4.神雕侠侶(1959年)―「射雕三部作」の第二作、読者から「義理人情の賛美」との評価を受ける。

5.雪山飛狐(1959年)

6.飛狐外伝(1960年)

7.倚天屠龍記(1961年)―「射雕三部作」の第三作

8.白馬嘯西風(1961年)―『雪山飛狐』の続編短編小説

9.鴛鴦刀(1961年)―『雪山飛狐』の続編短編小説

10.天龍八部(1963年)

11.連城訣(1963年)

12.侠客行(1965年)

13.笑傲江湖(1967年)

14.鹿鼎記(1969年)

15.越女剣(1970年)—『侠客行』の続編短編小説。金庸は元々『三十三剣客図』にある侠客の一人一人を短編小説に書こうとしたが、第一作の『越女剣』だけが完成を見た。対聯にも含まれていない。