3.11での中国の巨大ポンプ車の任務と責任を振り返る

 

福島中央テレビは3月7日昼12時からの特別番組で、当時中国の三一重工の販売代理店社長だった龍潤生氏を取材、東日本大震災の危機に中国企業が無償で巨大ポンプ車を提供した13年前を振り返り、「一滴の水をもらったら、バケツで返す」という彼が受けた教えが話題になった。

あの日の大震災を振り返ろう。13年前の2011年3月11日、東北地方は観測史上最大レベルの地震に見舞われた。マグニチュード9.0の強い地震に続き、巨大津波が押し寄せ、さらに壊滅的な被害を受けた福島原子力発電所では、いつ放射能漏れが発生するかわからない危機に直面した。同時に地震、津波、放射能漏れという三重苦に襲われ、日本列島全体に衝撃が走り、世界中から不安視された。

 

現場は放射能漏れの危機

震災後の余震よりも、津波で故郷や愛する人を失った悲しみよりも、2011年3月12日、14日、15日と3日連続で起きた福島第一原子力発電所の爆発が、多くの日本人を恐怖に陥れ、日本に旅行に来ていた多くの外国人は金を惜しまず航空券を購入し、直行便あるいは経由便ででも帰国しようとした。当時、ある中国人留学生の母親は一日に30回以上も電話をかけてきて、すぐに戻ってくるように訴えたという。

地震によって引き起こされた原発の大惨事は、人々に自分たちが死と隣り合わせにいることを痛感させた。当時、原発事故の現場にいた人々は、現場を戦場と表現したほどだ。汚染された現場にはがれきが散乱し、作業員たちは被曝を覚悟し命がけで働いていた。「決死隊」が編成され、テレビの実況中継は人々の心を動揺させた。

当時東京で、中国の三一重工の日本総代理店の社長であった龍潤生氏は、テレビの画面に釘付けになっていた。彼は、日本政府が消防車で注水冷却している様子だったが、地上からの高さが足りず、またヘリコプターでの上空からの注水も精度が足りず、効果的でなかった。この際、何より緊急で、最も必要なのは長いアームのポンプ車であり、長いアームによる高所からの放水で、破損した核燃料プールをノンストップで冷却、冷却、さらに冷却することだった。

日本の巨大ポンプ車の市場に詳しい龍潤生氏は、当時の日本には「エレファント」の愛称で親しまれている、アームの長さが50メートルのドイツ製ポンプ車しかなく、このポンプ車でも高さが足りず、福島原発4号機の差し迫った危機を救うことはできないことがわかった。

 

 

隣国への贈り物は「助け合い」 

「何をすべきか、何かできることはない」と、龍潤生氏は素早く考えを巡らした。この時、彼と三一重工の担当者が話し合うなかで、三一重工が設計・生産している巨大コンクリートポンプ車がドイツに輸出されるため上海港で船積みされていることがわかった。この巨大ポンプ車は、もともと建物の最上部にコンクリートを流し込むために使用されるもので、そのアームの長さはちょうど福島原子力発電所4号機の現場の厳しい条件をクリアしており、注水冷却に使用すれば、喫緊の問題を解決できる。

 この人類の大惨事を前にして、龍潤生氏には当時一つの考えしかなかった。「隣人の災難は自分自身の災難である」。そこで彼は三一重工の担当者と救援チームを組み、すぐに東京電力に電話した。東電の担当者は「この巨大ポンプ車を買いたい。費用はいくらかかってもかまわない。すぐに必要だ」と答えた。

 救援チームが三一重工の本社にこの件を連絡したところ、梁穏根会長の返答は予想外のものだった。梁会長は「今は救援を第一に考え、すぐに買い手と相談し、どうあっても日本に送ることを優先すべきだ。しかし、売るのではなく、寄付する。私たち中日両国は一衣帯水の隣国であり、お互いに助け合わなければならない」と指示した。

 すでに上海港で出荷を待っていた巨大ポンプ車の価格は約1億5千万円で、当初の買い手のドイツ企業と交渉した結果、先方が快諾したので、龍潤生氏と三一重工のスタッフは作業チームを結成し、巨大ポンプ車を最短で日本に輸送する解決策を検討した。

 政府間で輸送対策を講じていては時間がかかってしまうので、チームは日本赤十字社によるルートで運ぶことにした。「世界一」の巨大ポンプ車は上海港を最速で出発し、2日後には大阪港に到着した。非常に高く、長く、重いため、輸送は容易ではなかった。しかし、知恵は常に困難を乗り越えるものだ。龍潤生氏のチームは日本側と全面的に協力し、関連する課題をすべて突破した。巨大ポンプ車が日本に上陸した後、パトカーが道路を先導し、長い道のりを経て、巨大ポンプ車の車列は千葉県野田市に到着した。ここで三一重工の技術者が東京電力の職員を対象に2日間の遠隔トレーニングを行い、ポンプ車の操作方法を指導した。

 3月下旬、三一重工の巨大ポンプ車が福島に到着し、31日に作業現場に入った。空に向かって伸びる高さ62メートルの機械式アームとともに、アーム前方の放水口が原子炉建屋の上部をゆっくりと越え、号令とともに真上からトン単位の大量の水が燃料プールに正確に注入された。現場では、「注水成功!」と歓声が上がった。

 

 

エネルギーの新しいニーズが生まれる転機

制御不能に陥った福島原子力発電所4号機に注水して安定させるというアイデアを、龍潤生氏のチームが思いついてからわずか1週間後のことだった。東日本大震災から13年経ったいまも、「大キリン」と呼ばれる中国の巨大ポンプ車は福島原発の被災現場に立ち、安全を守りながら、不測の事態に対応すべく待機している。そしてこの13年間、龍潤生氏の会社は東京電力に定期的な「大キリン」の修理・メンテナンスサービスを無償で提供している。

この地震、津波、放射能漏れという人類史上まれに見る三重の危機の中で、龍潤生氏は生涯の事業の方向性を見出した。彼は、原子力エネルギー以外にも、人類は“複数の足で歩まなければならない”と考え、安全でクリーンでリサイクル可能なグリーンエネルギーの開発に注目した。そして彼は自身が設立したWWB株式会社において、太陽エネルギーに代表される新エネルギーの開発へと事業の重点を徐々に移している。

開発の過程において、龍潤生氏は日本の耕作放棄地を最大限に利用することに重点を置き、土地を「エコ」であるだけでなく、「エネルギー源」として、土地資源の利用価値を高めている。人々に利益をもたらすという明確な理念のもと、WWBの日本における多くのプロジェクトは、地元農家の農地収入を保証すると同時に、さらに一部の太陽光発電プロジェクトの収入も提供している。龍潤生氏によると、太陽光発電の分野で同社は、営業利益において日本のトップ企業になっており、太陽光発電製造では日本で唯一のブランドになっている。現在同社は、2030年までに原子力発電所1基の発電能力に匹敵する1000メガワット/時の太陽光発電所の建設も計画している。

地震は人類にとっての災難ではあるが、震災を人類の転機にすべきである。龍潤生氏は福島中央テレビのインタビューに応え、中日両国は隣国として互いの核心的利益に配慮すべきであり、共通の発展を求めるためには、より多くの交流と理解が必要であると、率直に自身の考えを語った。