民族の融合が輝きを生む
「 天の寵児」から「 自分とは何者か」へ、 匈奴の民族意識の転換

中国共産党第20回全国代表大会の報告書には、中華民族共同体の意識を高め、民族の団結と事業の発展を全面的に推進するとある。中華民族の多元一体構造の形成に対する研究を通して、われわれは中国の特色ある社会主義の道、理論、制度、文化に対する自信を確固たるものとすることができる。青年学者である馮世明氏は主に魏晋南北朝隋唐時代民族史、漢唐史、地域文化史の研究を行い、専門書『後漢官僚の地域構成研究』、訳著『ハーバード中国史』全三巻、『世界の帝国:唐朝』を出版し、『内蒙古師範大学学報』、『中国社会科学報』、韓国の『中国史研究』等の学術誌に、『1~4世紀の南匈奴の儒家文化アイデンティティに関する研究』、『古代遊牧民族の国家形成モデルをめぐる議論』、『内陸移住匈奴の孝道概念の変容とその原因』等、20篇の論文を寄稿し、国家社会基金プロジェクトの『匈奴国家の形態の変遷に関する研究』、省教育庁高等教育機関哲学社会科学プロジェクトの『紀元前3~4世紀の中原社会における匈奴イメージの形成と変遷』を相次ぎ完成させた。本稿『民族の融合が輝きを生む——「天の寵児」から「自分とは何者か」へ、匈奴の民族意識の転換』は2023年9月の全国人民政治協商会議「江蘇省中華民族の共同体意識を強固にするための(蘇州大学)研究基地」の調査研究座談会で取り上げられた。

悠久燦爛たる中国史は、中華民族の多元一体構造形成の歴史である。春秋戦国時代、「華夏」と「四夷」の差序的な構造配置が形成された。中国史においては、秦漢帝国建国後、「大一統」(中国は分裂してはならず、統一されていなければならない)という民族意識が大きな命題となり、歴代少数民族政権の支配的イデオロギーとなった。初めて遊牧帝国を建設した匈奴が、中華民族に融合していく過程には3つの段階があった。匈奴は、秦・前漢時代には、その強大な軍事力によって「天の寵児」を誇っていた。後漢時代以降、両者の接触が頻繁かつ緊密になるにつれて、「われわれは漢族に非ず」との民族意識が芽生えた。ところが、匈奴は久しく漢を崇拝しており、漢王朝を建国した劉淵は民族の垣根を超えて、民族意識統一への第一歩を踏み出した。「自分とは何者か」についての政治的・文化的解釈が、中華民族共通の文化遺産とアイデンティティを育み、その後、少数民族政権の「大一統」国家承認への理論的根拠となった。

 

一、秦朝から前漢時代:

中原と並び立つ「天の寵児」

戦国時代後期、北方では匈奴が台頭した。紀元前209年、頭曼の子である冒頓は父親を殺して単于(ぜんう:匈奴の君主の称号)に即位し、北方の草原で初めて強大な遊牧帝国を建国し、多くの部族や部族同盟・政権が冒頓の配下に入った。

民族意識とはまず、人民自らが特定の民族共同体に属しているという認識である。匈奴において冒頓単于、老上単于、軍臣単于の三代が草原を統治した時代は、匈奴帝国の黄金期であり、匈奴の民族意識が高まった時代であった。匈奴の勢力が強大であったため、前漢前期は友好、親善を図るよりなかった。双方がやり取りした書簡には、匈奴の単于の位は天から授かった命であり、中原の皇帝にいささかも劣るものではなく、その地位はより勝っているとある。「天が定めた匈奴の大単于、敬んで皇帝に問う、恙なきや」、「天地生れるところ、日月置かれる所の匈奴大単于、敬んで皇帝に問う、恙なきや」と。これらの外交文書が、単于の驕慢な姿勢を表している。漢朝・武帝の時代には、大規模な軍事行動を三度発動し、匈奴軍は大きな痛手を受けたが、決して漢に降伏することはなかった。征和4年、狐鹿姑単于(ごろくこ・ぜんう)が使者に持たせた親書には、「南に大漢有り、北に強胡有り。胡は天の驕子なり……」としたため、自らを「天の寵児」と称した。

軍事力を誇った匈奴は、一方で漢との経済・文化交流にも熱心であった。漢は匈奴から騎兵馬術を学び、漢の文明は匈奴の農業、建築、鉄器等さまざまな方面に影響を与えた。匈奴は漢朝と姻戚関係を結び、綿、酒、米、穀物、金、絹織物等多くの財物を手に入れ、関市(交換市)では、さまざまな物品や金属製品を手に入れた。中でも銅は、彼らの経済活動に重要な意味をもたらした。「匈奴、単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す」とあるように、彼らは漢の先進的な農耕経済や物質文明に憧れを抱いていた。

 

二、後漢、西晋時代:

「われわれは漢族に非ず」の自我認識と葛藤

後漢・建武24年、匈奴では内紛が発生し、折悪く深刻な自然災害にも見舞われた。南匈奴の日逐王比は部族を率いて後漢に服属した。この時、南匈奴は許されて長城内へ移り住み、再び長城外に戻ることはなかった。匈奴の漢化がさらに進む一方で、お互いが差異や利益相反を感じるようになり、それぞれの民族性が顕在化すると軋轢が生じ、文化のすそ野と視野の拡大に相反して、民族意識はより一層強まった。

南匈奴が漢族と雑居するようになると、二つの民族の間に大きな争いは見られなくなり、双方は不倶戴天の敵ではなくなった。匈奴にとって、日常的に接触する「漢人」は、中原に住む人びとという認識が定着し、匈奴を、自分たちは漢人とは異なる「胡人」であると認識した。民族アイデンティティは、多民族に対する意識無くしては存在しない。匈奴の民族アイデンティティには、漢民族に対する異属的意識が大きく反映されている。南匈奴が中原に移り、漢人と接触をもつようになると、まず外見的特徴や服装といった文明的な差異を感じるようになり、その後、食習慣、性格、社会習慣等の違いを感じるようになった。秦から前漢時代に形成された民族心理に加えて、漢民族の天性の美意識や自己優越感によって、匈奴を排斥し、下層階級として見下すようになった。そのため、後漢時代の画象石には、匈奴は一般的にマイナスのイメージで描かれている。江統の『徙戎論』には、漢民族の匈奴に対する典型的な見解が記されている。「われわれの民族ではないゆえに、異なる心を抱いているに違いない。戎狄(じゅうてき:異民族に対する蔑称)の心は華人とは異なる」と。こうした異民族意識が匈奴としての民族心理の形成を促し、自分たちは漢民族の目には文字をもたない、容貌の異なる野蛮な民族に映っていると認識させた。

中原に移った匈奴にも農耕が課され、牧畜経済から農業経済へと移行していった。彼らは軍隊にも編入し、内戦にも加わった。駐屯兵として農地を耕したり、豪強地主から土地を与えられ屯田兵にもなった。税を納め、兵役にも服した。漢民族と長く共存してきたため、漢民族の文化の影響を強く受け、風俗習慣や思考も次第に同化していった。一方で、役人や大族の下僕たちの漢民族に対する「恨みや憎しみは骨髄に達し」、民族意識を覚醒させた。「晋は無道を働き、奴隷のごとく我を御す」、「いま匈奴は呼韓邪の業を復活できそうだ」、「天命が西晋を嫌い、匈奴に味方している」とあるように、匈奴貴族は祖先の記憶や文化の歴史をもって、部族の団結を図り、起兵を扇動した。

三、漢王朝の政治権力:

劉淵と「劉氏の嫡宗」

匈奴は常々「自らは夏后氏の末裔」と名乗り、帝王・大禹の後代に北方に移住したのだと信じていた。匈奴は長年、漢に憧れを抱いていたため、曹操の時代には、自らを漢氏の外孫と称し、姓を「劉」と改めた。劉淵は幼少の頃より漢の地に居住し、儒家の伝統文化の影響を強く受けた。彼は若くして上党出身の漢人・崔游に師事し、崔游の下で『毛詩』、『京氏易』、『馬氏尚書』などの経史を広く学び、『春秋左氏伝』、『孫子』、『呉子』を暗誦し、史記、漢書、諸氏百家すべてに通じた。武芸にも秀で、射術を得意とし、腕力も人並みに外れ、文武両道の青年に成長した。この時期、劉淵の精神的基盤は確立され、自信を深めて志を固め、天下を治めることを自らの務めと定めた。

ところが、「漢族ではない」との理由で、長きにわたって劉淵が西晋の為政者に重用されることはなく、主な任務は南匈奴の代表として朝廷の各種儀式に列席することであった。郷里に帰還し左部、北部都尉に任じられると、「刑法を厳正に遵守してあらゆる悪行を禁じ、財を重視せず施しを好み、誠意をもって人と交流し、五部匈奴の豪傑たちは劉淵の徳を慕って次から次へと訪れ」、彼の本領は遺憾なく発揮された。恵帝即位後、権臣・楊駿の命により、劉淵は建威将軍、五部大都督に任じられ、漢光郷侯に封じられた。その後、成都王司馬頴の招聘により重用されると、数々の功績を挙げ、徐々に官位を上げていった。八王の乱において、劉淵は西晋王朝の虚実を知ることとなり、朝廷の腐敗と人材不足を目にすると、自分が国を統治すればもっとうまくやれると確信し、晋に対し造反の心を抱いた。劉淵は儒家の「大一統」思想の影響を受け、「大丈夫として生まれたからは漢高(劉邦)や魏武(曹操)を目指すべきであり、どうして呼韓邪なんぞで足りようか」と述べ、呼韓邪を超え、中国を統一した劉邦、中原を制圧し北方を統一した曹操に倣おうとした。

劉淵は、漢には政治権力が確立されているため、政権を安定させるには漢人と良好な関係を築く必要があると考え、漢族の伝統文化から思想や知恵を学び、「自分とは何者か」について一から自問した。

まずはじめに、「華夷思想」を打破した。「中原に諸夏が、外縁には夷狄がいる」との考え方が漢文明の主体意識を端的に表しているが、劉淵はまず、夏と周はもともと夷狄(異民族)であり、「大禹は西戎の出身で、周の文王は東夷の出身である」と言い、「道徳的統治」が行われている限り、少数民族が樹立した政権も正当な王朝となる資格があると結論づけた。司馬氏は互いを殺し合い、「天が晋の徳を憎む」ところとなり、権力は「晋に服従し、徳を積んだ」劉淵へと移譲し、華夷思想によって構築された政治風土は打ち破られ、「徳のある者が天下を取った」のである。

劉淵が次に着手したのは宗廟の建立であった。西暦304年、劉淵は儒家礼制に基づく南郊祭祀を執り行い、天下に新王朝の成立を宣言した。劉淵は匈奴の祖先である冒頓や呼韓邪を祀ることなく、漢族の血縁を敬畏した。「昔、我が太祖高皇帝は英明と武勇で国を治め偉業を成した。太宗孝文皇帝は明徳を重んじ、国を平和に治め……劉禅に孝懐皇帝の諡(おくりな)を贈り、漢の初代皇帝高祖以降の三祖五宗を祀った」とある。冒頓が前漢と和平を結んだことで、匈奴は自らを前漢王朝の甥であり兄弟であると認識し、漢王朝復興のために起兵を呼び掛け、漢族の信頼を得るため、国号を「漢」と定めた。

「天の寵児」であった匈奴が自らの民族意識を反芻する過程は、紆余曲折を経て不変の流れとなり、最終的に漢文明の血統に収斂されていった。劉淵による漢の建国は、北方少数民族が中原に進出し中華民族に融合する端緒となった。そして、胡民族と漢民族の民族的起源に対する共通認識となり、民族間の相互認識を深め、匈奴の民族意識統合への第一歩となった。劉淵は、漢政権が中原の地で長く栄えようとするならば、民族間の調和を図り、新しい生活環境に適応し、「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」というアイデンティティを形成しなければならないことを熟知していた。こうした認識が辺境地域と中原地域の一体化への堅固な基盤を築き、その後の少数民族政権の模範となり、その基盤の上に、隋、唐の輝かしい多民族統一国家が誕生していくのである。民族的、国家的、文化的アイデンティティは、中華民族共同体の意識を醸成する上での重要な要素である。この視点から、匈奴の民族意識が中華民族に同化していく過程を子細に見ていくことは、理論的側面においても実践的側面においても重要な意義がある。