「上洛」――東京からの洛陽への文化の旅
河南科学技術大学「域外漢学研究センター」を訪ねて

今日の日本でも、教養があり洗練された人々が千年の古都である京都に行くとき、多くの場合「京都に行く」とは言わず、「上洛する」と優雅に表現する。なぜだろう。この千年の変遷を経た歴史の街は、実は中国の古都である洛陽と西安を半分ずつ模して建設されたからである。日本に長年住んでいる筆者は、最近、東京から中国の千年の都である洛陽へ逆方向の旅をし、まさに心の故郷に帰る「上洛」をしてきた。

 4月25日午前、筆者は中国・洛陽にある高等教育機関である河南科技大学を訪れた。河南科技大学は創立70周年、現在、世界の一流大学・一流学科という中国の「双一流」大学を目指している。河南科技大学に足を踏み入れ、人文学院と河南科技大学客員教授である日本華文作家協会会員の秦晶晶教授が共同設立した「域外漢学研究センター」を訪れた。

筆者は突然多くのことが理解できた。科学技術大学のトップが、このような人文科学系のプロジェクトを承認し、支援し、資金を提供するには、大変な見識と勇気と覚悟を要する。そのような大学が中国の「双一流」大学でないとしたら、一体どこの大学がそれに値するというのだろう。

河南科学技術大学の域外漢学研究センターで筆者が目にしたのは、秦教授が日中文化交流に従事した8年間に日本で私費を投じて購入した洛陽に関する2000冊以上の「和刻本」古書、さらに 日本の文人による書画など200点以上である。

秦教授に解説してもらい、筆者は洛陽にまつわる多くの「和刻本」の古書を鑑賞した。その中には、前漢の文学者である賈誼が著した『賈誼新書』、唐の則天武后の命により編纂された『臣規』もあり、また、嵯峨天皇や醍醐天皇が愛した詩人・白居易の『白氏文集』や、日本の「俳聖」松尾芭蕉が最も愛した中国の「詩仙」李白の『分類補注李太白詩』なども収められている。

気の向くままに域外漢学研究センターの中を歩いていると、日本の江戸時代の有名な漢学者である頼山陽、篠崎小竹の漢詩集『山陽詩抄』『小竹斎詩抄』も目に入った。中国の漢詩は、その特別な文化的魅力によって、日本の文人たちに人気があった。

秦教授の日本の書コレクションには、日本の公卿、権中納言・大原重德の作品もある。「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という、洛陽市宜川県に墓所がある北宋の政治家・範仲淹の詩句の一節である。明治天皇の漢学の師であった長三洲の漢詩の書や、日本の「幕末の三筆」の一人である市川米庵の書も収蔵されている。

ここでは非常に面白い漢詩の書の掛け軸も目にした。それには、71歳の老人が新婚夫婦に向けた七韻の賀詞が記されていた。「君子と美人が結婚し、酒に酔ったお客が会場に溢れている 一生一つの心で縁を信じれば、三世代の良縁は保証される」というこの詩はあまりにストレートすぎるように思えるが、結婚という人生の一大事に、日本人が漢詩で夫婦への祝福を表現するとは、誰が想像し得ただろう。

秦教授は、「唐の時代、日本の朝廷は唐の統治経験とその先進的な科学文化に学ぶため、『遣唐使』を16回、『迎入唐使』と『送唐客使』を6回派遣しました。そのうち、6回の遣唐使は洛陽を訪れましたが、これはあまり知られていない事実です。興味深いことに、これらの遣唐使は、最大で600人以上という世界の古代史でも珍しい大規模な使節団だったのです」、また「今日、私たちは海外で『中国の物語を伝える』ことを積極的に推進していますが、実は日本は中国以外で最も多くの漢籍が保存されている国なのです。当時を想像してみると、文字だけで、音もないこれらの中国の古書が日本に伝わったということは、まさに『中国の物語を伝える』ことだったのです」と教えてくれた。

さらに秦教授は、最も初期の遣隋使である小野妹子が漢籍の収集を重要な任務としていたこと、その後の使節団も、それぞれ中国の書物を手に入れることを自らの使命としており、これらの遣唐使や留学僧が、日本の朝廷や唐の朝廷から与えられた生活費を節約し、「賜ったお金を書に費やし、海を越えて持って帰る」ことは、「何よりも文化を大切にし、帰国時には多くを持ち帰る」ことを目指していたと語った。

江戸幕府時代以降、日本はかなりの期間「鎖国」、つまり現代でいう「断交」政策をとっていたが、このような背景のもと中国の商船は、しばしば大量の漢籍を日本に持ち込んで販売し、貿易において大きな比重を占めるようになった。

日本人はこれらの書物を「唐船持渡書」と呼んでいた。日本人は文化的にも中国とは「断交」できないと考え、周代から清代にかけての中国の書物を官から民に至るまで大量に翻刻するようになった。

天保13 年(1842年)、江戸幕府は10万石以上の領地を持つ大名に翻刻の普及を奨励するよう命じたほどである。その中国文化の普及と魅力は、最高の「中国の物語を伝える」ことだっただけではなく、私たちの中国文化に対する自信を強めるものでもある。

秦教授も自身の「野心」を持っており、「域外漢学センター」は、狭義の日本の漢学センターであってはならないという。教授は、河南科技大学上層部の支援を受けて、正真正銘、名実ともに、「域外漢学センター」にしたいと強く希望している。

実は、近代における中国とヨーロッパの文化交流の歴史の中では、ヨーロッパにも中国の書籍が流入しているのだ。1575年以降、スペイン人宣教師ラーダは福州で大量の書物を収集し、ヨーロッパに送った。

さらに16世紀末からイエズス会の宣教師もまた、中国で大量の書籍を収集しヨーロッパに送っている。清の時代、フランス人宣教師ブーヴェが帰国した際、康熙帝がフランス王ルイ14世に贈った貴重な書物を持ち帰ったが、これは22図書目録、45箱、312冊にものぼったという。

また、ドイツではヴィルヘルム1世が東インド会社に命じて中国の書物を購入させていた。これらも将来「域外漢学センター」の一部となるはずだと秦教授は語ってくれた。

河南科技大学の「域外漢学センター」を出ると、秦教授が率いる域外漢学書店がオープンしたばかりであることがわかった。これらのすべては単なる「研究分野」ではなく、中国の伝統文化を発揚し、中国文化の自信を確立し、「中国の物語を伝える」、そして経済的な運営力と収益を持つ「文化産業チェーン」に発展させるべきだ。

古来、中国文化は中国経済の発展を牽引し、また中国経済の発展も中国文化の発展を促してきた。現在、中国文化と中国経済は、まさに世界の舞台の中心へと戻りつつある。