「異国から老境に中原を訪れ、新しい山河が気に入った」
河南省洛陽「域外漢学書店」を訪ねて

4月23日は本の香りに溢れる「世界読書デー」である。長年日本に住む筆者は、河南科技大学域外漢学センター主任の秦晶晶教授の招きを受けて、はじめて洛陽をたずね、秦教授が主宰する「域外漢学書店」のオープニングセレモニーに出席した。

当日、会場には50名近くのゲストが集まって交流した。ゲストたちは日本の文化、教育、経済、環境などについて関心が高く、もともと2時間と予定されていた交流タイムは4時間も続き、筆者を大変感動させた。

また、千年の古都である洛陽に、「域外漢学センター」や「域外漢学書店」のようなニッチな研究機関や特色ある書店が登場した理由もわかった。包容力のある、開放的な、革新的な都市でなければ、このような正しいイノベーションはできないということだ。

中国の西晋時代の有名な文学者である左思が『三都賦』を書いた後、非常に評判になり、多くの人が書き写したことで、「洛陽紙貴(書物がよく売れることの例え)」と言われるほど文化が盛んとなったことは、多少文化の素養がある人なら知っていることだ。

今回、書店のオープンセレモニーで、多くの洛陽の人たちが友人や客人と会って互いに本を贈り合っているのを見た。これは「洛陽は書を知る」という新しい文化・風習であるとも言えるだろう。もちろん、筆者もその場で多くの新しい友人から本を贈ってもらった。最も感動的だったのは、洛陽の有名な画家・寇衡氏が私の二人の孫である蒋晃晃、蒋昂昂に画集『唐詩三百首』を贈ったことだ。 彼は10年前から密かに筆をとり、唐詩三百首の一首一首に工筆画を添えていたのだ。洛陽にはこのような文化の伝承者がいるのだから、文化が栄えないはずはない。

域外漢学書店の設立者は、河南科技大学域外漢学研究センター主任である秦晶晶教授で、彼女も洛陽の文峰塔伝説を語る「無形文化財の継承者」でもある。

彼女は筆者に対し、「文峰塔は隋の時代の科挙制度から生まれたため、『文鳳塔』とも呼ばれ、中国文明の繁栄の継続という意味合いを持っています。洛陽の文峰塔伝説を語る無形文化財の継承者として、洛陽の文化の遺産を伝え、国内外の多くの人々に洛陽を知ってもらい、理解してもらうことが、私の使命です」と述べた。

秦晶晶教授は、域外漢文書店を運営することに対して、独自の考えを持っている。彼女は洛陽の愛書家にもっと場所を提供したいというだけでなく、さらに重要な点として、学術的な高みから一般市民に域外漢学を伝え、域外漢学を学んでもらい、域外世界における中国伝統文化の発展と影響力を知ってもらいたいという。

秦晶晶教授の書店は、一般的な書店と違い、にぎやかなショッピングモールや高級オフィスビルの中にあるのではなく、100平方メートル近い中庭を持つ奥まった閑静な街角にあり、入る前には小さな竹林を通り抜けなければならない。

筆者は日本三大名園の一つである金沢の兼六園に行ったことがあるが、その名は中国の宋の詩人、李格非による『洛陽名園記』にちなんでいる。李格非が「宏大、幽静、 人力、古風、泉水、眺望」という名園の六つの条件を挙げているので、「兼六園」と命名されたのであるが、洛陽にあるこの「域外漢学書店」の中庭はある意味、金沢の兼六園に似ている。

筆者は、域外漢学書店の棚に並ぶ素晴らしい本の数々を見たが、選ばれた本は歴史・文化系と芸術・絵画系の大きく2つに分かれる。

歴史・文化書は、主に日本の中国人作家の作品や、日中文化交流の歴史に関連する作品が多い。例えば、知日派作家の代表格である李長声、姜建強、万景路など在日中国人作家の作品や、「漢学の第一人者」といわれるハーバード大学の故・楊聯陞教授の作品などがある。著名な中日比較文化研究者の厳紹璗氏や南京大学域外漢籍研究所の張伯偉所長、南京大学の金程宇教授などの著作も揃えている。筆者の『日本的細節』などの著作も多数そろえられている。

美術書籍には、日本の浮世絵や日本で出版された様々な原書や希少本が含まれる。浮世絵には、江戸時代や明治時代に作成された原板の浮世絵や、近代の復刻品も含まれている。秦晶晶教授は次のように話す。「中日間の最も古い美術交流は、西暦630年(中国では唐の貞観4年)にまで遡りますが、日本で最初の版画の起源も仏教の木版画であり、最も古いものは、奈良に保存されている764年(天平8年)の木版本『百万塔陀羅尼』です。日本の江戸時代後期の浮世絵には中国美術が影響を与えており、主に蘇州の桃花塢姑蘇版年画や、清朝の画師・沈南萍がもたらした院体画風が反映されています。日本の学者・真保亨氏は、『日本の絵画の発展を歴史的に概観すると、古代から近世まで一貫して中国絵画の影響を受けている。これらの影響を抜きにして、近代絵画は語れない』と指摘しています」。

この書店には、毎日新聞社発行、文化庁監修の『国宝』、『重要文化財』、朝日新聞社発行の平山郁夫画集『楼蘭』、講談社発行の『水墨美術大系』、奈良国立博物館編・小学館発行の『国宝/重要文化財』、集英社発行の『日本古寺美術全集』など、日本国内で発行されているさまざまな原書や希少本も置かれている。

これらの貴重で高価な画集を選んだ理由について、秦晶晶教授は「私は日本の主要な博物館を何度も訪れ、その所蔵する貴重な文物の多くが中国から来たものであることを知りました これらの画集を通して、日本に収蔵されている中国の文物の情報や写真を見るだけでなく、中日両国の文化交流の歴史の発展や変遷を時代ごとに学ぶことができます」と語っている。

日本人は昔から洛陽に憧れを抱いてきた。京都に行くことを表す文語表現「上洛」にしても、2010年末に東京で開かれたフォーラム上で日中の20人近い学者が提案した「洛陽学」の構築にしても、洛陽への憧れを示しているといえる。筆者は秦晶晶教授に対し、今回の洛陽への旅で「洛陽学」に非常に興味を持ったので、東京に戻ったら「洛陽学」構築を提案した日本の学者全員を訪ねて、洛陽をどのように理解しているのか聞きたいと打ち明けた。

また、筆者の外祖父で、30年近くアメリカのハーバード大学で教鞭をとり、「中国文化を海外に紹介する第一人者」と呼ばれた楊聯陞が、1977年の夏、新中国成立後2回目に帰国したときのことにも触れておきたい。その際、彼は私の父に連れられ初めて洛陽を訪れ、旅の後、「異国から老境に中原を訪れ、新しい山河が気に入った。新しい砦や新しい森は見飽きないが、車はすでにいくつか険しい関所を越えた」という詩を残している。

運命の巡り合わせのようだ。筆者の外祖父である楊聯陞が初めて洛陽を訪れたのは64歳の時だった。そして今年、筆者が初めて洛陽を訪れたのも64歳の時である。楊聯陞が詠んだ「新しい山河」の詩を思いながら、筆者も洛陽に対して同様に「一番気に入った」という気持ちを抱いた。

その日の午後、記者がたくさんの良書を携えて洛陽を去るとき、かつて鄭振鐸先生が言ったように、「日が暮れて、風が服を揺らしたら、長い間探していた本を抱えて帰る、それも人生の楽しみの一つ」という気持ちになっていた。

さようなら、洛陽! 「域外漢学書店」でまた会おう。