隠元禅師が残してくれた足跡と課題

10月の初めに、30数年ぶりに京都府宇治市にある黄檗山萬福寺を再訪した。約束の時間より1時間も早く現地に到着して、往時の思い出に浸りながら萬福寺の外側を徒歩で一周してみた。

中国のことわざには、「旧地重遊」というのがある。懐かしい土地を再び訪れるという意味だが、まさにその心境での再訪だと言えよう。

ご存じのように、萬福寺は1661年に、明朝時代の臨済宗を代表する中国僧「隠元隆琦(ルビ:いんげんりゅうき)禅師」によって開創された寺院だ。今年はちょうど隠元禅師350年大遠諱を迎えた年でもある。

1654年に、63歳の隠元禅師は20名の弟子を連れて来日し、宇治の地でお寺を開いて、日本仏教界に新風を吹きこんだ。当初「臨済宗黄檗派」と称していたが、明治9年(1876年)、一宗として独立し「黄檗宗」を公称するようになった。日本の禅宗は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されている。

隠元禅師は日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残しただけではなく、萬福寺を基地に、建築、印刷、医術、書、美術、彫刻、煎茶、普茶料理、食物など多くの分野で、当時最新の中国文化を日本で広め、江戸時代の文化にも大きな影響を与えた。食材だけを見ても、隠元豆(ルビ:いんげんまめ)・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコを取る)なども隠元禅師の請来によるものだと言われている。萬福寺内の施設などを案内してくださった関塚哲心執事も隠元豆や蓮根の話に触れた。

帰りの新幹線のなかで、隠元禅師が残した足跡の大きさを再認識した感動に浸りながら、新しい課題を見つけた興奮にも駆られて、思いの翼を大きく広げた。

東京・銀座に湖北料理の店「珞珈壹號(ルビ:カッカイチゴウ)を開いた友人から聞いた裏話を思い出した。湖北省の名物料理に「藕湯」(蓮根のスープ)がある。日本でそれを作るために、最初、食材の調達に苦しんだそうだ。

蓮根には歯切れのよい「脆藕」ともちもちした食感の「粉藕」というのがある。しかし、東京周辺で入手できる蓮根のほとんどは脆藕で、故郷の味と食感をなかなか再現できなかった。いろいろ調べているうちに、粉藕の食感と似ている石川県産蓮根にたどり着いた。

その話を聞いた私は、自宅に戻って自分なりに調べてみて、以下のことはわかった。

関東地方で栽培される蓮根の7割を占めるのは金澄(ルビ:かなすみ)という早生(ルビ:わせ)品種だ。ちなみに、これは千葉県の育種家金坂孝澄が育成した品種で、1985年に最初の「金澄1号」が登録されたという。

一方、加賀蓮根は石川県で、江戸時代に加賀藩主が苗を持ち帰って栽培が始められたと伝えられる。肉質が緻密でデンプン質が多く、もちもちした食感がある。友人が見つかったのはおそらくこの蓮根だと思う。

蓮根については、奈良時代ごろの『古事記』(712年)や『常陸国風土記』(713年)、『万葉集』(奈良時代末期)には観賞用や食用として、すでに言及されているが、隠元禅師時代になってからようやく食材として定着しはじめたと見られている。しかし、その定着ぶりを見ると、まだまだ中国のそれに遥かに及ばないところがある。その意味では、いまに生きる私たちに課された大きな課題であり、歴史的使命でもある。

最近、中国江蘇省泰州市に住む李敬白さんの新著『寸紙小鮮 煙火滋味』を読んでいる。いろいろな料理の話をまとめたエッセイ集だが、「魚米之郷」という物産の豊かな土地柄がにじみ出る。読んでいるうちに、「藕心菜」という料理の記載に出会った。びっくりした。私は食べたことがなく、知りもしなかったものだ。

藕心菜に使われる食材は、レンコンの発芽後に生まれたばかりの根茎だ。言い換えれば、蓮根の赤ちゃんを料理に使ってしまうのだ。乳豚の植物版と言ってもよさそうだ。だから、それを食べるのにもったいないという声もある。

小さく切った藕心菜に青い唐辛子と赤い唐辛子を細く切ったものを混ぜて炒めるのが最も一般的な作り方だ。ほんのりとした甘さと清い香りは食べる人をとりこにする。

『寸紙小鮮 煙火滋味』を読みながら、「藕粉」、「糖藕」、そして蓮根を食材として生かした回鍋肉や「地三鮮」など、日本ではまだ広く認知されていない食材と食べ方、そしてその裏にある文化の交流と普及が新しい課題として残されていることに気付いた。

日中交流を深めるには、より多くの新しい隠元禅師の誕生が期待されている。私たちの一人ひとりもその新時代の隠元禅師にもなれる機会がある。

一帯一路をキーワードにしたこの短期連載は今回の原稿掲載で終了することになった。半年間は長くて短いようなものだった。ご愛読いただいた読者の皆さんに深謝すると同時に、紙面を割いてくれた編集部の皆さんにもお礼を申し上げたい。

それでは、さようなら。またどこかのメディアでお会いできるのを楽しみにしたい。

藕心菜

 

糖藕