「月明蕎麥花如雪」に思う日中交流の新課題

しばらく前、福島県いわき市の不動産市場を調査したとき、地元の方の案内に従って、「峨廊庵」という手打ちそば屋で昼食を取った。カイワレ大根数本と申し訳程度の大根おろしがのっているだけのかけそばだったが、その美味しさに舌鼓を打ちながら、絶賛した。

 日本で使われているそばの多くは中国山西省から輸入してきたものだと聞いている。海のシルクロードによって結ばれた中国と日本。本来、濃密なそば文化の交流があってもおかしくない。しかし、山西省だけではなく、中国のどこに行ってもおいしいそばの話はあまり聞かない。

 この食事体験を取り上げたダイヤモンド・オンラインにある私のコラムで、「なぜ『そば』は中国では広まらなかったのだろうか」という疑問に対して自己流の分析を試みた。同時に、この質問を読者の皆さんにもぶつけた。

 驚いたことに、大勢の方々がコメントを書いてくれた。今日は、ここにその一部を取り上げて紹介したい。

 東京の六本木や銀座で中華レストランを経営している中国人経営者から、以下のような指摘が送られてきた。

 「これは中国人の食糧に対する認識と関係がある。五穀と呼ばれる雑穀は広く食糧作物を指し、食糧作物の総称でもある。五穀とは、(精米する前の)もみ、麦、大豆、トウモロコシ、イモ類のことを言う。米や小麦粉以外の穀物を雑穀と呼ぶことも習慣になっている。

 『黄帝内経』では、「ウルチ米、小豆、麦、大豆、黄キビ」は五穀と呼び、『孟子滕文公』では「稲、うるきび、もちきび、麦、豆類」を五穀にあてた。仏教が祭祀イベントをやるときは「大麦、小麦、稲、小豆、ゴマ」を五穀にした。さらに李時珍の『本草綱目』には、穀類33種、豆類14種、合計47種が取り上げられている。その記載からもわかるように、中国人の理解では、そばは食糧類に含まれていない。加えて、米や小麦などの農作物は収穫の量が多いし、食感もよい。これはおそらく中国人があまりソバを食べない理由となっているだろう」

 さらに、そばの輸入情報を教えてくれた日本の方もいる。

 「そばは古くから日本人に親しまれてきましたが、今、原料となるそばの実は、大国である中国、アメリカ、ロシアからの輸入が多いのです。日本の自給率はこのところ増えていますが、輸入はそれでも7割前後。このうちもっとも多い中国産のものは、ことし、前の年と比べて3割ほど値上がりしているといいます」

 名古屋に住む山西省出身の中国人から、下記のような感想が書かれた。

 「そばをこんな風に分析した文章を読んだのは初めてだった。莫先生がおっしゃるように、私の地元山西省はそばの産地で、日本にも大量に輸出されていますが、当地ではそばは昔から醜いアヒルの子で、雑穀として扱われていて、工夫して食べようと努力する人もいませんでした。しかし近年、人々の生活水准の向上、低カロリー食品への志向の高まりに伴い、現地での需要は増加しています」

 教師として大学で働いているこの方はさらに、「いっそのこと、教鞭を捨てて、日本の老舗そば屋で数年間でも修行して、故郷に帰って起業して、日本式そばチェーン店を経営すれば、成功するかもしれませんね」と夢を広げてくれた。

 西北地域で暮らした経験をもつ中国人からは、「そば粉を使って作る」食べ物の数種類を教わった。そば豆腐もあれば、山西省、陝西省、河北省などの地域ではよく食べる「餄餎麺」もある。そのいずれも、うまくそばを使っている。

 中唐を代表する詩人、白楽天こと白居易が「村夜」という詩を書いた。

 「霜草蒼蒼蟲切切/村南村北行人絶/獨出門前望野田/月明蕎麥花如雪」

 (霜草は蒼蒼 虫は切切 村南村北 行人絶ゆ 独り門前に出いでて 野田を望めば 月明らかにして そば花雪のごとし)

 白居易は40歳の時、母の死に遭った。彼は直ちに官を辞し故郷に戻り、3年間の喪に       服した。この詩はそのときの作だ。玉井幸久という方は、インターネットで、この詩を次のように解読している。

 「月明りの下、人影もない村里の一面、雪のように白い蕎麦畑と鳴きすだく虫の音、その中に一人立つ作者の姿が目に見えるようです。それにより、作者の深い、孤独な悲しみを美事に表現することに成功した佳作です。なお、屑韻がより一層悲しみを増幅しています」

「屑韻」という表現に、私は驚いた。その方の中国詩への理解の深さをわかったからだ。

 しかし、一面に広がるそば畑の上からこうこうたる光を放つ月に照らされて、そばの花は雪のようにきれいな光景を作り出す。この景色と、それを描写した詩は日本人にも中国人にも好かれている。だが、残念なことに、そばと食糧との関係については、中国人も日本人も深くは掘り下げて理解しようとしなかった。

 このコラム原稿の作成に取り掛かったのはちょうど日中国交正常化50周年を記念するいろいろなイベントがにぎやかに行われた頃だ。もちろん、こうした一過性のイベントも必要だ。一方、日中間の交流には、まだまだ究明できていない課題がたくさん残っている。こうした根気と労力をかけて研究する必要のある課題にも、私たちはもっと歴史のロマンと夢を追いかける気持ちで取り組むべきではないかと思う。

 さあ、平和と繁栄が期待できる、実りある次の50年へ走り出そう。