雄大な鹿児島城を眼前にしても、わくわくする気持ちにはなれなかった。それは、鹿児島城が日本の100名城の中で97位に位置しているという理由からではなく、城の歴史に由来する。
われわれに同行してくれた中村龍道会長は、鹿児島経済界の重鎮というだけでなく、郷土の歴史・文化をこよなく愛する企業家である。数年前、われわれは鹿児島に招かれ、鹿児島出身の「維新の三傑」のひとりである西郷隆盛についてお話をうかがったことがあった。今回、われわれは「第12回全国和牛能力共進会鹿児島大会」に出席する機会を得て、再び中村龍道会長と相まみえ、歴史の転換点や「鹿児島城」を巡って語り合った。
鹿児島城を眼前にして、中村龍道会長は語った。「皆さんは今、TikTokで 『縦断日本蒋翁行』というショートムービーを制作されていますが、そこに『日本のお城を巡る』というコーナーがありますね。日本のお城に関する旅行記も読ませていただきましたが、中国人である皆さんが、日本のお城を深く理解されていることに感心しています。目の前の鹿児島城をご覧ください。日本の多くのお城と異なり、高くて丈夫な城壁はなく、権力の象徴である天守閣もありません。『平城』、『山城』或いは『平山城』とも呼ばれています。多くの呼称をもつ理由は、地形を利用して建てられたというだけでなく、江戸時代初期の『戦国大名』島津家久が建てたものだからです。この城を建てた当時、関ヶ原の戦いで西軍に加わった薩摩藩の島津家は、徳川家康率いる東軍に敗れました。そして、島津家久は故郷に戻って築城する際、戦闘のための城ではなく、住むための『居城』として建てたのです。そして、将軍・徳川家康に対する恭順を示すために、建築様式は格式を低くする必要がありました」。
中村龍道会長は振り返って指さしながら教えてくれた。「屈辱に耐えながらこの城を築城した島津家久は、『九州男児』の不屈の精神を示そうとしました。鹿児島城は、屋形が鶴が羽を広げたように見えることから『鶴丸城』とも呼ばれます。この屋形を見る度に、私は、島津家久はどのような信念、勇気、気迫をもって、この屋形にしたのだろうと思いを巡らすのです。中国の明・清の時代に『文字の獄』というものがありましたが、実は、日本の歴史にも同じようなことがありました。徳川家康は豊臣秀吉を滅ぼした時、方広寺の鐘に刻まれた『君臣豊楽、国家安康』の8文字に言いがかりをつけて、大阪の陣を引き起こしました。当時、徳川家康が『鶴丸城』の屋形に言いがかりをつけて、『城建の獄』を引き起こしていたら、薩摩藩は再び滅ぼされていたかもしれません」。
この話を聞いて、われわれは徳川家康の別の一面を見た思いがした。日本では一般的に、徳川家康は「忍耐」の人とされている。しかし、全ての「忍耐」には目的があり、力が及ばない時の手段であることを歴史は教えている。そして、「忍耐」の過程では常に内面の感情が溢れ出てくる。「忍耐」の目的が達成された時、その表現はより強暴で残酷なものになる。関ヶ原の戦いで、東軍の総帥・徳川家康が西軍の総帥・石田三成に京都で行った血生臭い弾圧を目にした島津家久は、「忍耐」するしかなかった。そうした意味では、鹿児島城(鶴丸城)は、日本の築城史においては稀な「忍城」である。
さらに、中村龍道会長は、義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」は異母兄弟であり、「戦国最強の兄弟」とされるが、それぞれに個性があると教えてくれた。彼らは生まれながらにして、家督継承の権力争いと薩摩藩への外部勢力の包囲攻撃に巻き込まれた。彼らは動乱と戦争の世に生を受けたのである。しかし、彼らが現状に甘んじることはなかった。自らの努力で薩摩、日向、大隅の三州を統一し、九州最強の地方勢力となった。四兄弟が共に参戦した最も有名な戦いは1578年の耳川の戦いで、兄弟の勇敢な戦いによって、大友宗麟の軍を破った。日本の歴史で、四兄弟が揃って参戦した戦争はまずない。
中村龍道会長は厳しい表情で、強者は常に強者の争いに遭遇するものだと語った。「サル」と呼ばれた豊臣秀吉は天下統一を果たした後、現在の福岡県北九州市の小倉城から20万の兵を率いて薩摩藩を指揮し、府内城、縣城、高城、根城坂、都於郡城と、島津軍を次々と攻め落とした。1587年4月21日、島津義久は今日の鹿児島城跡で、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に降伏の意思を伝えた。1587年5月8日、出家した島津義久は川内の泰平寺で豊臣秀吉に謝罪し完全降伏した。
われわれは中村龍道会長の話から、鹿児島城には「落城」の歴史があったことを知った。「鹿児島県人として、島津家の投降の歴史をどう見ていますか」との問いに、会長はこう答えた。「歴史には時代の潮流というものがあります。豊臣秀吉が天下を統一できたのは、織田信長が築いた基盤があったからです。彼は天下統一の開拓者でもなければ終結者でもありません。彼は天下統一の潮流に乗って「天下人」になったに過ぎません。島津家の投降も同様に、日本の歴史の大きな潮流に従ったということです。歴史の観点から見れば、投降は屈辱ではなく貢献です。日本を10年間の内戦に導き、京都を灰燼と化した1467年の『応仁の乱』を考えれば、島津家は薩摩藩と鹿児島県のその後の発展のために、自らを犠牲にしたと言えます。中国の古典『三国志』には、『その時勢において何を為すべきか見抜くことができるのは俊傑のみである』との名言があります。私は島津義久を故郷の英雄と思っています」。
鹿児島城をゆっくりとめぐり、中村龍道会長の話に聞き入りながら、われわれは日本のお城には独自の「文化」と「歴史観」があることを知った。
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