山口 哲蔵 笹の川酒造株式会社代表取締役
夢とロマンが凝縮されたウイスキーで中国市場を開拓

笹の川酒造株式会社は、福島県郡山市に本社を置く東北最古の地ウイスキーメーカーである。1980年代には「北のチェリー、東の東亜、西のマルス」と呼ばれ、同社が送り出した「チェリーウイスキー」は北の雄として人気を博した。先ごろ、同社安積蒸溜所を訪れ、10代目蔵元の山口哲蔵代表取締役に、ウイスキー造りの歴史、安積平野への思い、中国進出等について伺った。

東北地方最古の

地ウイスキーメーカー

―― 御社は、酒造として300年の歴史を誇る日本の老舗企業です。1946年からウイスキー事業に取り組まれていますが、ウイスキー造りの歴史についてお聞かせください。

山口 猪苗代湖の南の地で1710年(宝永7年)に創業し、実際に郡山の地で酒造りを始めたのは1765年(明和2年)からです。創業以来、水と緑豊かな阿武隈川を抱く安積盆地で、日本酒や焼酎の製造・販売を行ってきました。

祖父の八代目当主・山口哲蔵から聞いた話ですが、太平洋戦争終盤の1943年、44年頃から、清酒造りに欠かせないコメが手に入らなくなり、本業に支障をきたすようになりました。

戦時下で全国的に食料米が不足する中、当社は甘藷や馬鈴薯を原料として蒸溜し、スピリッツを製造。これとウイスキー原酒を混ぜ合わせ、二級ウイスキーを製造すべく、郡山税務署を経て仙台国税局にウイスキー製造の許認可を受けるため努力していました。

試験醸造を重ねて、製品は完成したものの免許が下りないため販売できずにいました。当時の大蔵省(現財務省)主税局長は後に首相となった池田勇人でした。そこで祖父は、ウイスキーの製品サンプルと地元の産業だったタバコを持参し、池田勇人に直訴したそうです(笑)。その2週間後に製造免許が下りたわけですが、当時国の政策としてウイスキー製造が奨励されていたようなので、ようやく認可されるに至ったのだと思います。

製造免許が下りた1946年当時、東北地方で正式に免許交付を受けていたのは当社だけでした。そこで送り出した「チェリーウイスキー」は北の雄として人気を得、酒類が極端に不足していた時代でもあり、市場に大歓迎で迎えられ、品切れ状態が続く嬉しい悲鳴の連続だったと聞いています。

以来、地ウイスキーブームがあったり、サッチャーの強い要請による酒税法改定によって打撃を受けたり、紆余曲折はありましたが、東北地方最古の地ウイスキーメーカーである誇りを持ち、こつこつと出荷を続け、現在に至っています。

 

天使に分け前を与えながら

時を紡いでいく

―― 本年3月、英国のウイスキー専門誌主催の国際品評会で、御社のウイスキーは世界最高賞に輝きました。御社のウイスキーの特徴と強みは何ですか。

山口 ウイスキーの原料は麦芽と水と酵母だけです。そして、もう一つ大切な原料は、時間です。時間がウイスキーの味をつくり出しているといっても過言ではありません。

原料の発芽大麦はイギリス、ドイツ、オーストラリアなどから輸入しています。これによりバラエティ豊かな原酒を製造しています。当社のウイスキーは、甘くて豊かな味わいが特徴です。口に含んだ後に感じるピートの戻り香が口中に広がって、その心地よさが楽しめるタイプです。

もう一つの特徴は、「天使の分け前」が非常に多いことです。樽の中で熟成を重ねる原酒が少しづつ量を減らすのを「天使の分け前」と呼びます。これは熟成が早くなる一つの理由で、普通2%ぐらいですが、当社は3%から6%ぐらい毎年無くなっているので、その分味が良くなっているのだと思います。

蔵で眠っていたウイスキーが、静かな眠りから目を覚まし、新たにリリースされる。忘れかけた時間の中で、十分に天使に分け前を与えながら、たくましく時を紡いでいくのです。

未来の郡山の発展を夢見た

開成社の創立者たち

―― 2016年冬、安積(あさか)蒸溜所が始動します。安積平野に託された思いについてお聞かせください。

山口 安積平野は古来一度も耕されたことのない原野でした。水の便に恵まれないこの地を開墾するために、「安積開拓の父」といわれた中條政恒の呼びかけで、郡山の商人25人が事業に賛同し、明治初頭の1873年(明治6年)に「開成社」を興しました。

76年(明治9年)、明治天皇の巡幸の折、水路建設を進言した結果、猪苗代湖から安積原野に水を引く計画が認められ、79年(明治12年)に国家事業として正式に着工。オランダ人技師の監修のもと、近代土木技術が初めて導入され、わずか5年という短期間で疎水を通水させました。

安積疎水は、疎水に関わる日本の国営事業第1号として2016年4月、日本遺産に登録されました。安積疎水のおかげで、郡山ではよいコメが作れるようになったのです。ですから安積という地名には思い入れがあります。

この開成社創立の25人の内の一人が私の曽祖父にあたります。未来の郡山の発展を夢見た開成社の創立者たち。その夢は未来のためのウイスキー造りとして現在につながれています。

 

クラフトウイスキーの

草分け的存在との出会い

―― 「イチローズモルト」の肥土伊知郎氏との出会いについて教えてください。

山口 2004年のある日、クラフトウイスキーの草分け的存在である肥土伊知郎さんから、ウイスキーの樽約400個とそのほかのウイスキーの原酒数千リットルを一時的に買い入れてほしいとのご依頼がありました。

肥土さんの会社が他人資本となり、「在庫のウイスキーを破棄するように言われた」とのお話でした。ウイスキーの製造には膨大な時間がかかります。樽の中で最低3年、長いものでは数十年かそれ以上になっても熟成を続けるものもあります。

酒の文化を考えた時、貴重なウイスキーが廃棄されるという事は、とても耐えがたく、在庫の引き取りを承諾し、将来の在庫の販売方法も打合せしました。肥土さんのウイスキーに対する情熱は熱く、世界のウイスキー市場、特に中国やインドの将来の需要予測などをお聞かせいただき、ウイスキーの可能性を学ばせていただきました。

実は当社のウイスキーは地ウイスキーブームで驚異的に売れたこともありましたが、平成に入って大打撃を受け一度休業しました。創業250年を迎えた2015年に原酒の蒸溜再開を決意するのですが、文字通り一からのスタートでした。その時に、肥土さんにいろいろと教わって、2016年3月に安積蒸溜所を本格稼働させ、3年後にウイスキーのシングルモルトを発売することができたのです。

 

大切に造ったウイスキーで

中国市場を開拓したい

―― 近年、中国では富裕層を中心に、日本のウイスキー人気が高まっています。中国のウイスキー市場をどのように見ていますか。

山口 中国で日本のウイスキーの評価は高く、けっこう高額な商品が売れていると聞いています。それはそれでいいと思うのですが、ただ、それほど美味しくないものでも高い値段がついているのが一番心配です。値段にふさわしいかどうか、飲む人が飲めば分かります。きちんとした商品が市場で流通しなければいけないと思っています。

私自身は中国市場を開拓したいと思っています。実は、東日本大震災前から中国の方とお付き合いしています。以前、福島県として、上海や北京のブロガー3人を招聘して、県のPRをしていただきました。当社と郡山の和菓子屋さんが選ばれたのですが、福島県産食品が輸入解禁になったら一生懸命販売に協力するという方もいらっしゃるので、早くその時期が来るよう期待しています。

 

―― ウイスキーの魅力とは何ですか。中国市場進出など、今後の夢をお聞かせください。

山口 ウイスキーは時間をかけて造るものです。一朝一夕にできるものではありません。原酒の一雫さえ、愛おしんだ作り手の思いが詰まっています。やはり、長い年月の中に夢とロマンが凝縮され、秘められた意思が、琥珀色の液体となって、人々にいっときの幸福を届けてくれるのです。

現在、当社が造っているウイスキーは、最長だと20年ぐらい先にならないと完成しません。どういう味になるのか分かりませんが、それだけ先のものを造っているという意識を持つべきだと思っています。

最近、「儲かるから造るべ」という方がいらっしゃいます。企業として利益を追求するのは結構ですが、ウイスキー事業に参入した以上、きちんと造ってほしいと思います。途中でやめない、始めたら続ける、「初志貫徹」が大事です。

「日本のウイスキー」の名を汚さぬよう良いものを造り続けながら、福島県産食品が輸入解禁になったら、積極的に中国市場を開拓したいと思います。