〈連載〉 北京紀行(その3)
~北京大学紅楼のもう1つの重点展示「中山艦」と日本の関係について~
藤原洋・株式会社ブロードバンドタワー 代表取締役会長兼社長CEO

北京大学発祥の地(北京大学紅楼、北京新文化運動記念館、写真1)を訪れて「中山艦」という軍艦の存在を初めて知りました。私は、いわゆる科学技術系の人間にしては、小中高と社会科は、勉強した方だと思っていましたが、大学受験時代に隅から隅まで読んだ、山川出版社の日本歴史にも世界歴史にも出ていなかった物語がありました。

 

【物語の概略】

長崎の三菱造船所(現三菱重工長崎造船所で世界文化遺産に推薦が決まったばかり!)で1910年に、清朝からの依頼で造られた知られざる砲艦「中山艦」(写真2)が、日本人の手で作られたのにも関わらず、日中戦争という悲劇によって、日本人の手で長江の河底に撃沈されたという実話です。

当初の艦名は「永豐(豊)」(Y?ng f?ng)でしたが、辛亥革命が起こり中華民国(当時の)へ引き渡され、1925年の孫文の没後、生前の「廣州蒙難」(Gu?ng zh?u méng nàn)時の同艦の活躍を記念し、孫文の通称の「中山」に改名されたのでした。「廣州蒙難」とは、「北京政府」に対して孫文が「廣州政府」を建てていた1922年、「廣州省長」陳炯明(ちんけいめい Chén Ji?ng míng 1875~1933年)が叛旗を翻し、約2ヶ月にわたり孫文が広州・珠江水上の「永豐艦」に立て籠もった事件がありました。この危機に際し、同艦上で陳炯明軍に対する戦いを指揮したのが?介石でこれにより孫文の厚い信頼を勝ち得たというところから急展開を見せます。

 

【孫文とは?】

皆様もご存知のように、孫文(1866~1925年)は、初代中華民国臨時大総統で、中国国民党総理に選出され、辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国(台湾)では国父(国家の父)と呼ばれ、中華人民共和国では「近代革命先行者」として近年「国父」と呼ばれている中国と台湾の両方で尊敬される数少ない人物です。中国では、孫文よりも孫中山の名称が一般的で、孫中山先生と呼ばれています。1935~1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されており、現在は100新台湾ドル紙幣に描かれています。

 

【中山艦隊事件】

1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じて、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになりました。国民党総理孫文は以前からソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していましたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(士官学校)を建設することを決定し、黄埔軍官学校が設立されました。蒋介石が校長に就任。国民党幹部の廖仲愷・戴季陶は、軍校駐在の国民党代表、政治部主任に、また国共合作にともない共産党幹部の葉剣英・周恩来は、教授部副主任、政治部副主任に就任。軍官学校では孫文の三民主義とマルクス主義が同時に教えられていたとのことです。孫文の死後、蒋介石は、主導権を取ることを狙っていたとのことです。

1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れ、蒋介石は、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発したのでした。その後、中国では、共産党が、主導権を握ることとなりました。

1938年、日中戦争の際、日本軍機の攻撃を受け長江中域の武漢にて沈没するという悲劇が起こりました。1997年に引き上げ後、修復作業を経て現在、武漢にて展示されています。不思議なことに約60年後に引き揚げられた中山艦の内部の遺品は、ほぼそのままの形でほとんど腐食せずに残されていました。腐食が小さかったのは、沈没した所が海ではなく長江(別名=揚子江。青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジア最長で世界第3位)という淡水だったからだと思われます。

 

ここに展示されている写真や遺品は、一連の悲劇と激動の中国と日本の歴史の生き証人であると言えます。日本の明治維新後、急速に発展した日本の造船技術の粋を結集し、中国のために作りあげた船が、不幸なことに、両国の戦争で沈没してしまったということですが、時は流れ、21世紀を迎えました。第2次大戦で傷ついた、ドイツとフランス両国が協力しているように、現代中国と現代日本とが協力して、アジアから平和と繁栄の世紀を実現したいものだと思いました。

(つづく)

藤原  洋
<Profile>
1954年、福岡県生まれ。京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、日立エンジニアリング株式会社、株式会社アスキー等を経て、株式会社インターネット総合研究所等を設立し、現職。96年、東京大学より工学博士号を取得。現在、SBI大学院大学副学長教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。