高山 英子 NPO法人東方文化交流協会理事長
「若者に国の未来を託したい」 ―― 全力疾走 !

「日中友好の拡大」「国民相互理解の増進」――スローガンを叫ぶのはたやすいが、実際の行動をもって粘り強く活動を続けていくのは難しい。長年にわたって草の根の民間交流を具体的に実践してきたのが、NPO法人東方文化交流協会理事長の高山英子さんだ。その活動も中国での学校建設支援、留学生激励イベント、留学生日本語スピーチコンテスト、中国視察訪問団派遣、中国の生徒を日本へ招聘、上海国際芸術祭への参加、少年スポーツ交流、中国の小学校への寄付、災害支援と多岐にわたる。そこには、中国と日本という二つの国で生きてきた高山さんの波乱の人生、国の将来を担う若者たちへの温かい眼差しがあった。

協会を設立、中国と日本の架け橋に

高山さんは1950年に中国人の父と日本人の母の間に生まれた。だが、高山さんが15歳の時、父が他界、その後、女手一つで育てられた。22歳で小学校の音楽の教師になった。母が長春外国語学校の教師だったので、その影響もあり、教育の世界を選んだという。

13年間、教師として教鞭をとり、35歳の時に母と日本に帰国したが、子供を抱えての新天地・日本での生活は決して容易ではなかった。中国では仕事と家庭の両立で日本語を学ぶ余裕などなかった。

日本に来ても日本語がほとんど話せなかった。そこで夜間の日本語学校に通った。さらに手に職をつけようと経理事務や洋裁の専門学校で学んだ。一時も早く日本に慣れ、自立しようと無我夢中だった。

やがてある大手デパートの中国物産店でアルバイトをする話が持掛けられた。初めての経験だが挑戦してみることにした。そして持ち前の明るさとバイタリティで顧客を次々と増やし、物産店はみるみるうちに繁盛した。


「中日友好万年長大聯歓」(2008年2月、人民大会堂)

ある日、高山さんに一つの転機が訪れた。デパートの役員に「中国から大切な商談が舞い込んできたので通訳をしてほしい」と頼まれたのだ。そこで「短時間なら」ということで引き受け、商談を見事に成功させた。

このことがきっかけになり高山さんは「私には中国人と日本人の血が流れている。中国と日本に貢献する活動をすべきではないか」――そんな思いにかられた。

そこで6年間、勤務した中国物産店を退職し、1993年、日中をつなぐ旅行会社を設立した。高山さんは、これまで培ってきた人脈ネットワークをフル活用、顧客を拡大していった。中国への旅行には高山さん自身が添乗員として同行、中国を知り尽くした交渉力と、女性ならではのきめ細かなサービスで業績を上げていった。

旅行会社が軌道に乗ると、日中友好交流のために貢献したいと思うようになった。そこで1995年、東方文化交流協会を立ち上げ、のちにNPO法人とした。

協会を設立した目的は、アジア諸国、とりわけ中国と日本の関係発展と国民の相互理解を深め、そのために文化交流、人的交流によって友好親善を図り、中日両国に貢献することだった。


第11回友好の翼(2011年11月4日~8日)

人民大会堂で「中日友好万年長大聯歓」開く

最初、「中国事情研究会」「中国語教室」「太極拳」「中国料理」などの分会を設けた。日本人が中国文化に興味を持ってもらうためだ。この分会では、高山さん自身が講師となることもあった。

高山さんが最初に手掛けたビッグイベントは、「東方文化祭り」だ。日中友好交流・相互理解のための催しで、年1回連続12回にわたって開催し、協会のメーンイベントとして定着させた。

特筆されるのは第10回「東方文化祭り」を「中日友好万年長大聯歓」と銘打って北京の人民大会堂で開催したことだ。この催しには日本から100名を超すメンバーが参加、総勢およそ400名が一堂に会し、2月の厳寒を吹き飛ばす、熱気であふれた。

各界の要人が出席し、祝辞を述べ、さらに中国の銀幕を飾った往年の映画俳優である田華、蘇凡、于洋、厖学勤、楊静、王蘇亜の各氏も参加、華やいだ雰囲気に包まれた。


留学生のお見舞(2006年5月)

高山さんは教育交流に特段の力を入れてきた。中国教育交流団を組織し、北京教育研究所、学校などを訪問し、中国の教育現場を視察してきた。このことが中国での学校建設支援へと発展していった。2003年2月に黒龍江省孫呉県における希望学校建設に協会の会員をはじめ、高山さん自身が建設資金を寄付した。

孫呉県は旧日本軍の毒ガス弾が放棄され、撤去作業が続けられているところだ。そうした理由もあり、支援することになったもので、この中学校は同年4月に着工、8月に完成している。

協会が長年にわたって力を入れてきたのが、「友好の翼」だ。中国各地の友好団体を訪問して友好を深め、同時に中国の文化や経済を視察する活動だ。2003年から15年まで13回にわたって実施した。

協会は、日中の将来を担う青少年交流に力を入れてきたため、学校訪問は欠かせない行事の一つとなっている。塩城市の中学校の視察を契機に、同市の生徒を何度も日本へ招聘し、視察や交流を盛んにしてきた。日本の学校との交流、資源リサイクル工場視察、大学訪問、日本企業訪問と、ありのままの日本の姿を見てもらい、中国と日本の未来の礎としてきた。

「上海国際芸術祭」といえば、毎年秋に開催される国際的なイベント。協会では日本を代表する若手ミュージシャンで編成する「スーパーカントリーバンド」を送り込んで、中日音楽交流の華を咲かせた。代表的なカントリーソングだけでなく、「北国の春」「上を向いて歩こう」「花」といった日本のヒット曲も披露し、「上海っ子」から喝采を浴びた。

中国の未来を担う若者に温かな眼差し

協会は中国の砂漠地帯の植林にも力を入れた。敦煌郊外で植林を続け、2005年には植林活動を記念した碑「友好之林」を建立、砂漠緑化活動を続けるためのシンボルとした。

また、東洋大学と提携し、留学生を激励するとともに、社会体験や会員との交流などを行ってきた。留学生は、日頃は学業とアルバイトなどで追われ、日本の観光地をゆっくりと見学したり、留学生仲間と交流する機会は少ない。こうした日本での貴重な経験は、若者たちの心に永遠に刻まれ、やがて立派に成長した若者たちは中国と日本の発展と平和のための架け橋となってくれるだろう。そんな期待を抱いて実施したイベントだ。

「一人を大切にすれば、万人を大切にすることに通じる」――高山さんは、それを身を持って実践した。日本語学校に通っていた頃から交流があった中国人留学生が、大学に入学する直前に交通事故に遭った。救急車で運ばれ、生命が危ぶまれるほどの重傷を負った。集中治療室に入れられ、しばらく生死の淵をさまよった。


洛陽贈呈式(2017年5月)

留学生の出身地の黒龍江省から両親も駆け付け、高山さんも何度も見舞いに行き、見舞金を贈り、激励した。その若者はすっかり完治し、現在、社会人として立派に活躍しているという。そんなところから高山さんは、留学生たちから「日本のお母さん」と呼ばれ、親しまれている。

中国でも日本でも大きな自然災害が発生し、多くの人々が被害を被ってきた。2008年5月、四川大地震が発生した。高山さんはさっそく協会の会員に呼び掛けて中国大使館を通じて義援金を送った。昨年は生徒の招聘などで親交の深い塩城市が大きな竜巻に見舞われ、さっそく義援金を送っている。

昨年は雲南省麗江市永勝県の少数民族が通う小学校、今年は河南省洛陽市山村にある小学校に校舎補修や教材を寄贈している。国の将来を担う生徒を恵まれた環境で勉強させたい。そんな願いが込められている。中国人留学生による日本語スピーチコンテストも3回目を迎え、充実してきている。今年は2回、北京より少年野球チームを招聘し、葛飾区・新宿区の少年野球連盟と親善試合を開催、スポーツ交流を行っている。

協会設立から22年が経過した。高山さんは走馬灯のように過ぎ去った年月を噛み締めながらも立ち止まることはしない。日中国交正常化45周年を迎えた今、改めて「若者に国の未来を託したい。その架け橋になってほしい」との願いを込めて走り続けている。