今日は10月25日――台湾が「光復」、すなわち祖国に帰還してからちょうど八十年になる記念の日である。
本来なら、留日経験を持つ友人とともに、1945年10月25日に台湾で日本軍の降伏を受けた陳儀将軍の「日本留学の足跡」を訪ね歩くはずだった。しかし突然、腹痛に襲われ、途中でやむなく帰宅することになった。
机に戻ると、過去に読んだ書物や観た映像の数々が、次々に脳裏に浮かび上がってきた。だから、この文章を書かずにはいられなかった。

1945年の台北、公会堂に揺れた旗
1945年10月25日の台北。淡水河から射し込む秋の光は、台北公会堂前の旗竿を通り抜け、静かに掲げられていく旗を照らしていた。
それは、多くの台湾人にとって、50年ぶりに見る「中国の旗」であった。風は強くなかった。だが、人々の胸の内では、旗の布よりも激しく震える音がしていた。
陳儀――軍帽の下の目元は落ち着いているように見えるが、指先は氷のように冷たかった。彼は「台湾省行政長官兼警備総司令」としてこの地に立っていた。使命は明確――だが、その重みをわかっていたのは、彼自身だけであったかもしれない。
基隆港に降り立った瞬間、潮の音が古い記憶の書物のように耳元に響いた。旗を振って迎える者、黙ったまま俯く者、そして日本式の学生服を着た若者――その目には、喜び、戸惑い、恐れ、複雑な感情が入り混じっていた。
海の匂い、油の匂い、古い木箱の湿気、そして言葉にできない「帰郷の匂い」。
だが、これはただの帰郷ではない。歴史の引き渡しであり、文明と力の交差点だった。
受降式の静けさと、刀の冷たさ
台北公会堂の受降式は、驚くほど静かだった。日本第十方面軍司令・安藤利吉が軍刀を差し出し、陳儀がそれを受け取った。刀の冷たさは、台湾殖民地五十年の終わりを象徴していた。
陳儀の唇は固く閉ざされていた。笑わなかった――いや、笑うことができなかったのかもしれない。
誰かは言った。「彼の肩に乗っていたのは、栄誉ではなく重荷だった」と。
号角の音――「ウーッ」という長い音が、空に向かって伸びていく。多くの台湾人にとって、生まれて初めて聞く「祖国の音」であった。
一壺の茶と、苦く甘い祖国の味
公会堂の階段下に、一人の老茶商がいた。七十歳を越えていただろうか。
手に持っていたのは、包種茶の入った茶壺。
「将軍、どうぞ。これは台湾の水で淹れた、祖国の葉の茶です。」
陳儀は静かに頷き、茶を口にした。茶の味は、最初は苦く、次にふわりと甘みが残った。まるで、今の彼の心のようだった。

台湾は白紙ではなかった
台湾は、ただの白い巻物ではなかった。鉄道、病院、電灯――日本統治の遺産は確かに残った。しかし同時に、植民地の階級制度、日語行政、心に刻まれた沈黙も残された。
陳儀は日記に書いている――
“城廓我に帰すといえども、人心なお海峡を隔つ”(城や土地は我らの手に戻れども、人の心はなお海峡を隔てている)
彼は台北の整然とした街並みを見た。だがその裏には、人々の心に潜む不安と疑いがあった。
「私たちは台湾人か、中国人か?」
「祖国とはどんな匂いのするものか?」
行政長官としての三年と、暗い影
10月25日以後、陳儀は行政長官公署を設置し、物資の接収、法幣の導入、日本総督府の廃止などに奔走した。
書類は山のように積まれ、夜になっても墨の匂いの中で眠った。
だが、すべてが順調だったわけではない。日本人が去った後に残された空白――それは政治だけではなく、生活様式、思想、言語の断絶だった。
そして、三年後――1947年2月28日、「二・二八事件」が起こる。
陳儀の名前は、英雄の碑から、歴史の議論の渦へと落ちていく。
それでも――10月25日は誓いの日
歴史とは、白か黒かではない。
それは島を囲む海のようだ。潮は引き、また満ちる。いつか必ず、大陸の大河とひとつになる。
もし今日――1945年10月25日に戻れるなら。もし再び台北の空に号角が響くなら。陳儀は同じ場所に立ち、黙ってあの旗を見上げたに違いない。
それは個人の栄誉ではなく、民族の漂泊百年の「一度の寄港」だったと。
風は今も、台湾府城の古い城壁を撫でている。
そして昨日――2025年10月24日、中国全国人民代表大会常務委員会は決定を下した。今後、毎年10月25日を「台湾光復記念日」として制定する。
もし陳儀将軍がこの知らせを聞いたなら、九泉の下で、きっと静かに微笑むだろう。
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