2025年7月、私は静岡県袋井市で日本の著名な茶学者・松下智先生と再会した。先生はすでに95歳の高齢であるにもかかわらず、健康状態は極めて良好で、この日も愛知県から新幹線で自らお越しになったと聞き、私は深く感銘を受けた。
松下先生は愛知大学の教授として長年にわたり茶学の研究に尽力され、著書も多く、これまで幾度も中国の茶産地を訪れている。往時の訪中経験について話題になると、先生は淀みなく語り、その卓越した記憶力に驚かされた。
私が六堡茶を愛飲していることをご存じの先生は、ご自身が日本で最も早く六堡茶に注目した学者であると語り、話題は自然と六堡茶へ移っていった。
そして初めて知ったのだが、2025年は六堡茶が正式に日本市場に登場してからちょうど40周年にあたるという。中国国内でも「小衆派」(マイノリティ)に属する名茶が、異国の地で半世紀近くも売れ続け、しかも常に多くの熱心なファンを抱えてきたのである。六堡茶はまさに、中国名茶の海外販売史における伝説を築いたと言えるだろう。
私は現在、日本中国茶研究所の所長を務めている。その職責からしても、六堡茶と日本市場にまつわる往事や逸話を整理することは当然の務めである。ここでは、日本で調査した資料や松下先生をはじめとする関係者の証言をもとに、六堡茶の日本における販売史を茶愛好家に向けて簡潔にまとめてみたい。
日本の学者の梧州訪問
横浜や長崎の華僑の証言によれば、六堡茶はかつて日本にも輸出されていた。当時は籠詰めのまま梧州から直接日本へ運ばれ、通関後に日本側で再包装されて市場に流通していた。しかし、その数量は決して多くはなかった。さらに注目すべきは、当時の日本市場では熟普洱茶の知名度が高く、多くの六堡茶はプーアル熟茶(後発酵処理を施したプーアル茶。中国語で「熟普」)として包装・販売されたり、あるいはプーアル熟茶とブレンドして販売されていたことである。そのため、当時の六堡茶は日本ではほとんど知られていなかった。
1985年、六堡茶は日本市場で大きな転機を迎えた。この年、愛知大学国際交流学部教授で豊茗会(1970年、茶の文化振興のために設立された社団法人)会長の松下智先生と、同大学の佐野貢治准教授らが広西・梧州を訪れ、六堡茶の産地を初めて現地調査した。これは日本の茶学界が初めて梧州に足を踏み入れ、神秘的な六堡茶の製法を調べた歴史的な訪問であった。帰国後、松下先生は六堡茶の普及に尽力し、ついに『六保茶のしおり』を出版した。これは六堡茶史上初の専門書であり、この書を通じて多くの日本の学者や茶愛好家が中国・広西の六堡茶を知り、愛飲するようになったのである。1985年に六堡茶が正式に日本市場に登場して以来、今年でちょうど40周年を迎えることになる。
松下先生らの六堡茶探訪は、日本の学界にも大きな反響を呼び、さまざまな研究のきっかけとなった。その代表的な成果の一つが、日本の黒茶研究者である名古屋女子大学・将積祝子教授らによる論文「六堡茶の製法とし好性」(『山田家政短期大学研究紀要』1986年、第12集所収)である。本研究は、六堡茶の製法を詳細に分析するとともに、その化学成分、堆積過程に作用する微生物、さらに日本人の嗜好調査を体系的に報告したものである。
六堡茶の大きな特徴は、独特の発酵方法にある。茶葉は「殺青」「揉捻」の工程のあと、三度にわたって積み重ねて発酵させる。とくに「湿堆積(しっついせき)」と呼ばれる工程では、竹かごや竹網に茶葉を入れ、温度をおよそ50℃に保ちながら発酵を進める。この独特の方法によって、六堡茶は黒褐色に仕上がり、檳榔(ビンロウ)に似た独特の香りを生み出すのである。
成分については、カテキンやアミノ酸が少ないことが指摘されており、これは長い発酵過程によるものである。ただし、他の後発酵茶(例えば普洱茶)と比べると、むしろ可溶成分やアミノ酸が多く含まれていることも明らかになっている。
さらに、発酵の過程ではカビの一種が大きな役割を果たす。六堡茶からは「ユーロチウム属」というカビが特に多く見つかっており、これは発酵食品の香りづけにも関わる有用な菌である。六堡茶特有の香りを生み出す源と考えられている。なお、中国で有名な「金花菌(Eurotium cristatum)」については、この研究では確認されていない。
さらに将積教授らは、日本人に対する嗜好調査を実施している。調査対象は六堡茶のほか、雲南省の普洱茶、そして富山県朝日町で生産される極めて小規模な後発酵茶「富山黒茶」であった。短大生(20代女性)および婦人消費者団体(30~60代女性)計120名を対象に試飲調査を行った結果、20代・30代は六堡茶を「飲みにくい」と答える割合が高く、むしろ富山黒茶を好む傾向が見られた。一方、40代以上では有意な好みの差はなく、六堡茶に対しても一定の評価が得られた。
私自身の長年の教育経験からも、多くの中年女性はさまざまな茶を試した後、やはり六堡茶に魅了される。中には毎日欠かさず飲む人もいるほどだ。この点において、私の経験もまた将積教授の研究を裏付けていると言えよう。
梧州六堡茶が日本で大ヒット
その後、梧州も積極的に日本市場へと働きかけ、六堡茶の販売促進に乗り出した。梧州中茶茶業有限公司のアーカイブには、1987年の古文書「日本派遣茶葉貿易チーム人員選抜に関する通知」が今も残っている。内容は概ね次のとおりである。「経済貿易部対外経済貿易局の承認を得て、中国土産畜産輸出入総公司は1988年2月に日本へ茶葉販売のための貿易チームを派遣する。滞在期間は15日間とし、広西茶葉分公司梧州支公司およびその他の関係会社から、それぞれ1名の業務幹部を選抜して参加させる必要がある」。文書の末尾には「中華人民共和国対外経済貿易部」の印章が押されている。
1991年には、広西・梧州が再び賓客を迎えた。日本黒茶協会会長の堤定蔵氏が広西梧州茶葉輸出入公司を訪れ、六堡茶の原料や製造工程、健康効果を詳細に視察したのである。堤氏は帰国後、六堡茶の情報と価値を主要な茶企業、製薬企業、学術機関に広く紹介した。日本の製薬業界による研究や検査の結果、六堡茶には脂質分解やダイエット効果があることが確認された。
当時、東京農業大学教授で農学博士の小泉武夫氏も六堡茶に注目していた。著書『発酵食品礼賛』では「貴重な微生物発酵茶」という項目を設け、そこで代表的な茶として取り上げたのは、雲南の普洱茶と広西特産の六堡茶の二種だけであった。小泉教授は、茶葉の発酵過程で糸状菌が酵素を生成し、その酵素が体内の脂肪を分解し老廃物を除去すると説明している。そして、発酵終了後の熟成期間が長いほど、茶葉の健康価値は高まると強調した。この特性ゆえに、六堡茶と普洱茶は日本で「ダイエット茶」として知られるようになり、高齢者やホワイトカラー層から支持を集めた。
当時の日本はバブル経済のまっただ中で、人々は外食や宴席が増え、生活習慣病を抱える人も少なくなかった。そんな中、脂っこさを取り除く六堡茶は大きな注目を浴び、瞬く間にメディアを賑わせた。1990年代初頭には、広西梧州茶葉輸出入公司と日本黒茶協会が互いに感謝状を贈り合うまでになっていた。
六堡茶と「六保茶」
しかし、六堡茶が日本に輸出される際には一つの難題に直面した。「堡」という字は日本ではほとんど使われないため、多くの人が知らず、読み方もわからなかったのである。そこで日本向け輸出時には「六保茶」と表記を改めた。
第一に、「保」は常用漢字であり、一般市民にとって読みやすく理解しやすい。これによって茶名が分かりにくいという問題が解消された。
第二に、日本語における「保」には「保護」「保健」といった意味があり、消費者は「六保茶」と見れば自然に「健康を守るお茶」というイメージを抱きやすかった。
第三に、中国語では「保」と「堡」は同音異字であるため、名称を変えても意味の一貫性が保たれた。
こうした理由から、「六保茶」という表記は正確さ(信)、分かりやすさ(達)、美しさ(雅)を兼ね備え、日本市場に受け入れられたのである。その結果、広西の六堡茶は日本でも高い人気を博し、現在のコレクターは当時の輸出品を「無土六堡」と呼んでいる。また日本の愛好家の中には、もっとストレートに「油解茶」「健美瘦身茶」「中国秘伝黒茶」と称する人もいる。
もう一点、説明しておきたい。今日の宣伝では「六堡茶はかつて日本の薬局で販売されていた」と言われることがあるが、これは正確ではない。日本の「薬局」には二種類ある。ひとつは薬剤師が常駐し処方薬を扱う薬局。もうひとつは化粧品や漢方薬、日用品などを販売する「ドラッグストア」である。外に大きな「薬」の看板を掲げてはいるが、中国の同仁堂のような漢方薬局とは異なる。
日本のドラッグストアには昔から便通を整えるお茶や杜仲茶(とちゅうちゃ、中国原産の樹木の葉を使った健康茶)、ダイエット茶といった機能性茶飲料を販売する伝統があり、当時の六堡茶もまさにそうしたドラッグストアで取り扱われていた。ドラッグストアという業態は日本社会に広く浸透しており、多くの人々が食後や休憩時間に立ち寄って生活必需品とともに購入する。こうして六堡茶は、すでに当時から日本人の日常生活に入り込んでいたのである。
1995年、日本のBIOMAX社と夢咲株式会社は梧州茶葉輸出入公司を日本に招き、日中間での六堡茶のさらなる協力を協議するとともに、「広西六堡茶の先進性」と題した特別研修講演会を開催した。訪日期間中、同社の業務チームは堤定蔵会長を再訪し、六堡茶事業への貢献に感謝の意を伝えた。
当時、日本へ初めて輸出された「無土六堡茶」は、今では伝説的な古茶となっている。その包装には、品名「黒茶六保茶」、会社名「中国土産畜産輸出入公司広西壮族自治区分公司梧州支公司」と記され、正面左上の「中国茶葉」の四字は繁体字、左下の会社名は二行横書きとなっていた。さらに、右上にはかすかに一羽の鷹が飛ぶ図柄が描かれていた。箱の下部には赤または青のインクで「NET WT200GMS」と英文の正味重量が印刷されていたが、手作業によるため色合いに濃淡が見られる。
2002年、プーアル茶ブームの際に、広西梧州茶葉輸出入公司は六堡茶を国内市場に投入することを計画した。当時、1980年代に日本向けに出荷された六堡茶の在庫が残っていたため、それを再包装して販売したのである。この二度目の生産分の包装は日本向け版と基本的に同じだが、細部にいくつかの違いがある。品名は引き続き「黒茶六保茶」とされたが、会社名は「中国広西梧州茶葉輸出入公司」に改められ、表面左上の「中国茶葉」の四字は繁体字のまま、左下の会社名は繁体字で一行表記になった。また、初回生産分に描かれていた飛翔する鷹の図柄は消えている。つまり、名高い日本向け黒箱「無土六堡茶」は実際には2回にわたって生産されて、その間には十数年の隔たりがある。愛好家はぜひ見分けに注意すべきだろう。
その後、この黒箱の長方形パッケージは梧州茶葉輸出入公司の定番商品となり、これまでに計9種類が生産された。ただし「黒茶六保茶」の表記を用いたのは最初の2回の生産分のみで、以降の7回はすべて「黒茶六堡茶」と表記された。
今日、日本向け黒箱「六保茶」は六堡茶界の名品とされ、オリジナルの古茶は年号付き高級ワインのように高額で取引されている。現在の市場価格は1箱あたり1万元(約20万円)にも達する。その理由は大きく三つある。第一に、六堡茶が海外に輸出された歴史を象徴する特別な記念的価値を持つこと。第二に、当時の輸出茶は質が高く、長年の熟成により独特の風味を備えていること。第三に、当時輸出された大半の茶はすでに飲み尽くされ、約40年を経た現在、残存するものはごくわずかであること。
「なぜ少し残しておかなかったのか」と疑問に思うかもしれない。しかし、それは無理な話だ。六堡茶はあまりに美味しく、一度好きになればやめられないのである。これこそが梧州六堡茶の魅力であり、魔力にほかならない。(筆者は日本中国茶研究所所長)
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