紫砂壺を好む中国茶愛好家なら、潘仕成という人物を知っておくべきである。
彼がデザインした紫砂壺は、形状がきわめて古典的で、清代末期の福建や広東の家庭では定番であった。他の紫砂壺は、その形状によって「蓮子」「石瓢」「宮灯」「梨形」と呼び方が異なるが、彼がデザインした紫砂壺は姓をそのまま冠して「潘壺」と呼ばれ、造形によって「高潘壺」「矮潘壺」「三足潘壺」の三つに分類される。ここで誤解してならないのは、潘仕成は紫砂職人ではないということだ。紫砂壺は彼の趣味にすぎない。彼が最も得意としていたのは水雷であった。戦争で用いるあの水雷である。潘仕成は茶人であったが、それ以上に奇人であった。彼の物語を紹介していこう。
潘仕成、字は徳畲、徳輿。原籍は漳州で、一族は代々広州に居住した。清・仁宗嘉慶9年(西暦1804年)生まれ。清・穆宗同治12年(西暦1873年)に没した。享年69歳であった。潘仕成は塩業を営む裕福な家に生まれた。二代目として安楽に暮らすこともできたが、彼は真面目に学問に励み、科挙を受験した。清道光12年(西暦1832 年)、28歳のときに順天府郷試(地方試験)で「副貢」となった。
「副貢」とは、明清時代の科挙・郷試で得られる特別な資格で、「貢生」の一つである。清代の郷試は三年に一度行われ、合格者は「挙人」と呼ばれ、進士の受験資格を得たが、不合格者の中から成績が比較的優秀な者を選び「副貢」とした。
潘家は三代続く塩商人で、潘仕成は幼い頃から金銭と権力の関係をよく理解していた。副貢になった後、北京の飢饉救済に巨額を寄付したことから、挙人の称号を賜り、刑部郎中に任じられた。また慈善事業に尽力すると同時に、広東連山の瑶族の反乱の鎮圧にも資金を提供した。これらの行いにより、潘仕成は次第に官界に人脈を築いていった。故郷に戻ってからは、広東の官界の要人たちと緊密な交流をもった。『尺素遺芬』によれば、彼と書簡を交わした官界の要人は111人に及び、中には林則徐、郭尚先、張岳崧、湯貽汾、鄧廷楨などの高官もいる。
アヘン戦争期には、潘仕成は「敵を制するにはまず砲を制し、砲を制するにはまず船を制すべし」と考え、月五千両の高給でアメリカ海軍士官・レイスを雇い、広東で新型の対艦機雷20基を造らせ、総額六万五千両を投じた。この対艦機雷の外殻は防水性で、25㎏~75㎏の爆薬を詰めることができ、雷酸水銀で起爆する仕組みで、火種を持たないため、極めて安全で信頼性が高かった。潘仕成は水雷を天津の大沽に運ばせて実験を行い、大成功を収めた。潘仕成が模造したこの対艦機雷は、中国で初めてつくられた近代型の水雷であり、当時、世界で最も先進的な対艦機雷であった。後に魏源は『海国図志』の中で、潘仕成の水雷の研究成果を引用している。
1843年7月、潘仕成は製作した水雷を都に献上した。道光帝はこれを視察し、その爆発力に満足し、恩賞として勲章を授け、さらに按察使にも任じた。「布政使」の官職は正二品に相当する。実際の官職ではなく名誉上の官職であったが、それでも十分に高い待遇であった。これにより、潘仕成は正式に高級官僚の一員となった。この時、彼はまだ39歳であった。
もっとも、官職というものはそう容易に務まるものではない。商人として官職にあった潘仕成は、当然ながら困難や窮屈さを感じていた。このあたりの事情は、同じ立場にあった胡雪岩や盛宣懐の物語からも推し量ることができよう。
彼は仕事の合間に茶を飲むことを一番の楽しみとしていた。故郷の漳州も育った広州も茶を愛する土地柄である。潘仕成は知らず知らずのうちにその影響を受け、茶に心酔していった。茶を淹れる時は必ず紫砂壺を用いた。さらにその紫砂壺も自らがデザインしたものを宜興に特注した。彼のデザインには決まった形があり、蓋の縁に陽文の篆書で「潘」の字が刻まれ、底や他の部分に落款はない。潘家の名声が高まるにつれ、人びとはこの紫砂壺を「潘壺」と呼ぶようになった。
潘仕成は一度に大量の紫砂壺を注文した。なぜそれほど多くの紫砂壺を必要としたのか。潘仕成ほどの財力があれば、紫砂壺を売って利益を得る必要などまったくない。官吏が小商いをすれば、むしろ笑いものになるだろう。潘家が特注した紫砂壺は、もっぱら親戚・友人に贈られた。茶を嗜むことは、潘仕成にとって重要な社交手段でもあったのだ。酒席は落ち着かないが、茶会には品がある。金銭を贈るのは露骨であるが、壺紫砂であれば差し障りがない。こうして潘壺は、潘仕成が上流社会で社交する際の重要な手土産となった。
故郷の漳州は、潘仕成のような大人物を輩出したことを誇りとし、潘壺は縁起物となった。娘の嫁入り道具に潘壺を持たせることができれば、大いなる名誉であった。その家が潘家と交わりを持っていることの証であり、交際範囲の広さを示すものであった。さらに、嫁ぎ先で娘が夫を支え子を育て、潘家のように繁栄することを願う意味も込められていた。しかし、実際に潘家と交わりを持てる者は少数で、多くの庶民は潘壺が欲しくても潘家とは繋がりがないため、模倣するしかなかった。上等の潘壺は器形が似ているだけでなく、紫砂壺であることが望ましい。潮汕泥壺であれば格は落ちる。もともと貴族の玩具であった潘壺は、この頃から商品化されるようになり、最終的に水平型や梨型と並ぶ典型的な紫砂壺の型が出来上がった。厳密に言えば、潘壺は水平型や梨型よりも格式が高かった。なぜなら、作者は「紅頂商人」の潘仕成であり、その身分と地位は紫沙職人とは比較にならない。潘壺は国内だけでなく海外でも人気を博した。おそらく潘家が広州の港湾地域に位置していたため、早くから日本や東南アジアに伝わったのではないかと推察する。とりわけ日本の煎茶道の茶人たちは潘壺をことのほか好んだ。近年の日本のコレクション市場でも、清末民国期の潘壺の名品をよく目にする。
茶を飲むことは、潘仕成の生涯にわたる二大嗜好の一つであった。われわれ茶愛好家も同じではないだろうか。仕事に追われ、生活に疲れ、プレッシャーは大きい。そんな中、少しの時間、茶を愉しみ本を読む。取り立てて高尚なことではない。そこには、ささやかな愉しみがあるだけである。(筆者は日本中国茶研究所所長)
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