1982年の設立以来、日中友好会館は政府間を超えた民間交流の象徴として、青少年・文化・教育など多分野で交流を推進してきた。中国代表理事の黄星原氏は、三度の日本勤務を通じて時代ごとに変化する日中関係を見つめ続けてきた外交官である。本誌はこのほど黄星原氏を取材し、会館の使命と民間交流の意義、そして緊張と再構築を繰り返す日中関係の行方について伺った。
―― 日中友好会館は1982年の設立以来、両国の民間交流、なかでも青少年や文化の分野で活発な交流を推進してきました。まず、会館の位置づけや事業内容、そして先生の主なご職務についてお聞かせください。
黄星原 まず、『人民日報海外版日本月刊』を通じて、新中国建国76周年をお祝い申し上げます。日中友好会館(以下、会館)は、政府が推進する民間交流のモデルであり、日中友好協力の象徴です。その源流をたどれば「善隣会館」に至り、90年にわたる歴史を有しています。
会館は、45年前に日中両国政府の合意により設立された「日中共同事業」のプラットフォームです。両国が出資し、人材を出し合い、共同で運営することで、経済・文化・教育、とりわけ青少年交流を促進することを目的としています。これは世界的にも初めての試みであり、日本においても唯一無二の存在です。
日中関係の深化にともない、会館の活動も、従来の五つの公益事業――すなわち、青少年交流事業、留学生事業、日中学院、文化事業、そして植林・植樹事業――に加え、新たに学者やシンクタンクとの交流といった分野にも広がっています。こうして会館は、時代の変化に応じて多様な分野に取り組む「五つの柱+α」の新しい交流モデルへと発展しています。
会館創設の責任者は、日本側が衆議院議長の古井喜実氏、中国側が当時全国人民代表大会常務委員会副委員長を務めていた廖承志氏でした。私は新型コロナウイルスの最も深刻な時期に、中国駐キプロス大使の任を終えて会館に赴任しました。これは、中国政府が民間交流を重視し、人文交流が滞る中で会館に独自の役割発揮を期待していた表れです。
私の主な職務は、会館の円滑な運営を維持し、日中友好交流の理念から逸脱しないよう管理することです。これらは日本側代表との連携のもとに行われており、私にとって新たな挑戦でもあります。
―― 先生はこれまで三度にわたり日本で勤務され、現在は日中友好会館の中国代表理事を務めておられます。それぞれの時期における日中関係の特徴や日本社会の変化を、どのように感じてこられたでしょうか。また、外交活動の違いについてもお聞かせください。
黄星原 まさにご指摘の通り、私は幸運でした。日本に駐在した三つの時期はいずれも、日中関係において象徴的な節目でした。そのおかげで、日本の地方と首都、政府外交と民間交流の両面を経験することができました。
最初の勤務は1980年代末から1990年代前半で、私はまだ30歳前。長崎、福岡、大阪の三つの総領事館で6年間務めました。当時の中国は改革開放の熱気に包まれ、日本式経営や技術導入に熱心でした。一方、日本はバブル経済の絶頂期で、日中関係はまさに「蜜月期」でした。業務は多岐にわたりましたが、やりがいを感じました。日本国民の多くは中国に友好的で、政府の政策も比較的寛容でした。3000人規模の青年訪中交流や日本政府による援助、そして会館の創設もこの時期に実現しました。
もちろん当時も反中右翼は存在しましたが、大きな流れにはなりませんでした。中曽根康弘首相は靖国神社参拝後に事態を察し、それ以降は参拝を控えました。歴史を否定する政治家の発言が世論の反発を招き、退陣に追い込まれた例もあります。
二度目の日本勤務は今世紀初頭で、中国大使館の報道官を6年間務めました。前回と同様に多忙でしたが、今回は多くの懸案を抱えていました。当時、中国経済は急成長し、日本との貿易も拡大する一方、日本は「失われた10年」に直面していました。日中間では突発的な出来事が相次ぎ、「摩擦期」と言える状況でした。右翼による大阪総領事館突入事件や長崎の「乙女の像」へのペンキ事件、教科書改ざん問題などが続発。政府要人の靖国参拝も繰り返されました。報道官として私は各地で取材を受け、中国の立場を発信しましたが、脅迫や危険な郵便物を受け取ることもありました。
三度目の日本駐在は、パンデミック直後の2020年秋でした。これまでと異なり、政府の後ろ盾をもつ民間機構の代表としての赴任です。活動はすべて友好交流事業に関わり、講演や式典、イベントなど多忙な日々を送っています。急成長を遂げた中国は世界第2位の経済大国となり、日本も「失われた30年」を経て新たな活力を見せています。日中関係も浮沈を経て「再構築期」に入ったと感じます。隣国関係を除けば、ほとんどが様変わりしました。日本では首相交代が頻繁で、戦略的視野とバランス感覚を持つ政治家が減少しています。友好を支える団体や個人はなお強い意志を持つものの、高齢化が進行。学者や専門家の発言は活発ですが、論調に偏りが見られます。従来の課題は未解決のまま新たな問題が次々と生まれ、その背景には「百年に一度の大変局」における大国間の駆け引きや、安全保障を口実とした短絡的な判断、そして焦燥感から生じる国民心理の歪みがあると感じています。
幸いにも近年、国際・地域情勢の変化を背景に、日中の有識者の間では「関係悪化は両国の国益にも、アジアの平和や発展にも資さない」という認識が広がっています。アジアで一、二を争う経済大国として、両国には関係改善と主導的役割を果たす責務があるとの声も高まっています。そのため、関係改善に向けた前向きな兆しが見え始めています。最近、双方は指導者の共通認識に基づき、4つの政治文書の精神の下で戦略的互恵関係を包括的に推進していくと表明し、特に青少年を中心とした民間交流の強化による相互理解の深化を強調しました。日中友好に携わる私たちの舞台は、今まさに広がりつつあります。
―― 日中関係が緊張する時期にも、先生は精力的に交流活動を続け、相互理解の促進に尽力されてきました。「国の交わりは民の友情にあり」と言われますが、これまでの活動の中で、特に印象に残っている出来事や感動的なエピソードをお聞かせください。
黄星原 この2年で、私は年平均500回以上の交流活動に参加してきました。挨拶やテープカットといった華やかな場から、対話やシンポジウムまでさまざまです。「露出度」は大使や報道官をしていた頃に匹敵するほどです(笑)。
一つ目のエピソードは、着任翌年、まだ新型コロナウイルスが猛威を振るっていた頃の出来事です。年末に実施したオンライン交流で、双方の国を訪れたことのある中学生数十名が画面越しに語り合いました。会館として初めての試みで、全体発表やグループ対話など内容は盛りだくさんでした。
スマホやパソコンを使い慣れた子どもたちは、訪問先の写真や思い出をショート動画で紹介し、相手国で覚えた歌を披露。楽しげな笑い声や懐かしさの涙にあふれ、観客として参加していた私もその雰囲気に引き込まれ、子どもたちの純粋さに胸を熱くしました。
コロナ禍の間、私は子どもたちのオンライン交流に何十回も参加しました。彼らの笑い声から、両国の若者が力を合わせて困難を乗り越えようとする意志と、日中友好を担う後継者の存在を強く感じました。まさに会館のような民間団体が青少年交流を絶えず続けてきたからこそ、人の往来が途絶えた中でも、人と人、心と心を結ぶ架け橋を築くことができたのだと思います。
二つ目のエピソードは、つい最近のことです。ある中国人画家から、会館で日本の書家と書画交流展を開きたいと相談を受けました。書と絵を同じ空間に展示し、日中の文化の共通性を表現したいという趣旨でした。私は友人の京都大学・張敏教授を通じて、日本書道界の泰斗・杭迫柏樹先生を紹介いただきました。92歳の先生は快く応じ、作品を提供してくださったうえ、猛暑の中、自ら京都・宇治から上京して開幕式に出席されました。白髪ながらも若々しい風貌でスーツを着こなす先生の姿に、会場の来賓は深く感動していました。
杭迫先生の作品は、博物館や首相官邸に収蔵されているほか、大阪の中国総領事館の応接室にも掲げられています。日本の有名ファッションブランドが先生の書をデザインに取り入れた商品を展開し、若者からも注目を集めています。開幕式では、先生が安徽省博物館で個展を開き、それが90回目の中国訪問だったと語られました。先生の中国への情熱は東洋文化への敬愛に根ざし、中国書法の探究に深まり、大著『王羲之書法字典』として結実しました。10万字に及ぶ研究成果を1万字に凝縮したこの書は、世界唯一の王羲之研究の基礎文献とされています。力強く流麗な筆致からは、中国古典文学への深い造詣と中国への熱い思いが伝わってきます。
―― 「言論NPO」と中国外文局の共同調査によると、日本に「良くない印象」を持つ中国国民は87.7%に達し、過去20年で最高となりました。また、民間交流が日中関係の改善に重要だと答えた人は、日本では半数を超えた一方、中国では25.4%にとどまっています。この結果をどのように受け止め、改善の方向をどうお考えでしょうか。
黄星原 私は「北京―東京フォーラム」の初期から参画し、「言論NPO」の世論調査の設計にも関わってきました。調査結果は、設問内容や対象者の構成、その時期の両国関係や社会の雰囲気によって左右されます。政府の政策、メディア報道、保守思潮、突発的な出来事なども影響要因です。結果の傾向は注視すべきですが、数値そのものに過度にこだわる必要はないと考えます。
留学・学術・文化交流が日中関係の改善に重要かという問いに、日本では半数以上が重要と答えたのに対し、中国では25.4%にとどまりました。その理由は二つあります。第一に、両国の視点の違いです。14億の人口と多くの隣国を抱える中国では、外交改善は政策によって左右されると考えられます。一方、貿易立国の日本では国際交流の重要性を広く認識しています。「Panda杯」の調査では、中国を訪れた経験のある日本の若者ほど中国への印象が良く、7割以上が「日本のメディアは日中関係改善に貢献していない」と回答しました。日本では専門家や民間団体の活動が活発で、私も多くの場に招かれてきました。
一方、日本は隋・唐の時代から交流を重ね、明治維新以降さらに活発になりました。学術・文化交流は政府の支援と企業の協力により、体系的かつ大規模に発展しています。会館の青少年交流や植林活動の二大プロジェクトも、日本政府の特別基金によるものです。「近くて遠い」という現状をどう改善するかは、外交課題であると同時に広報の課題でもあります。ここで三つの提案を申し上げます。
第一に、相手をどう見て、どう位置づけるかが極めて重要です。正しいポジショニング戦略こそ日中関係の方向を決める鍵であり、これを誤らなければ多くの問題は解決します。相手を脅威と見るか、パートナーと見るかで政策の方向は大きく変わります。私はよく二つの例を挙げます。一つは1972年の日中国交正常化で、両国が正しい戦略と果断な政治判断を持ったことで関係は黄金期を迎えました。もう一つは1990年、制裁下の中国を海部俊樹首相が訪問し、「蜜月期」を維持したことです。海部氏は後に「判断に後悔はない。日本の国益にかなう決断だった」と語りました。将来も同様に、両国指導者の合意を着実に実行し、戦略的互恵関係を外交全体に徹底すれば、関係は安定的に発展します。そのためには、「遠きに交わりて近きを攻む」という誤った外交観を改めねばなりません。
第二に、「民をもって官を促し、官民一体で進める」姿勢です。歴史が示すように、民間・地方・メディア・学識者、特に青少年交流の推進は、関係が困難に直面した際の「接着剤」となり、政府間対話が途絶した時の「第二のルート」となります。二千年を超える交流と国交正常化後の50年の歴史が示すのは、四つの政治文書を順守し、経済的補完関係や3,000億ドル超の貿易額を踏まえ、互いの地政学的利益を正しく理解して友好的な世論基盤を固めれば、両国関係という大船は容易に傾くことはないということです。
本年12月13日、会館は新中国初の民間訪日代表団をテーマにした展示会を開催します。71年前、中国赤十字会会長・李徳全女史率いる代表団が来日した当時、日本の政治環境は厳しいものでしたが、沿道には数万人が集まり熱烈に歓迎しました。その後、民間交流は急速に広がり、国交正常化への道が開かれました。現在の状況は当時よりはるかに良好です。「民をもって官を促す」という鍵を、私たちは再び活かすべきです。
第三に、健全な世論の好循環が欠かせません。私は長年メディアに関わってきましたが、偏った情報から生じた偏見を改めるには、政治家の発想転換と勇気、メディアと世論空間の良識、そして市民の支持が必要です。政府の決定や政治家の行動、メディアの誘導、突発事件の煽動、さらには極端な民意は、いずれも関係改善を阻む「悪循環」となります。日中関係が安定に向かうときほど、思わぬ妨害や突発的事態が起こってきました。だからこそ、双方は協力して警戒を怠らず、大局を見据えてリスク管理と問題解決の力を高める必要があります。
―― 近年、日中間では象徴的な出来事が相次ぎ、関係は不安定です。石破茂首相と習近平国家主席が「建設的かつ安定的な関係」を確認しましたが、間もなく首相が交代します。この良好な流れは続くでしょうか。また、中国で上映された映画『南京写真館』や『731』は反響を呼ぶ一方、日本では「反日教育ではないか」との声もあります。今後、ハイレベルな相互訪問の可能性、そして会館が民間外交の立場から果たす役割と今後の展望についてお聞かせください。
黄星原 ハイレベル交流は二国間関係の構築において極めて重要であり、それは歴史が証明しています。会館初代会長・古井喜実氏の回顧録『日中十八年―一政治家の軌跡と展望』によると、氏は初訪中の際、「中国共産党の統治はどこまで続くのか」「中国の社会主義の特徴とは」「日中友好の未来はあるのか」という三つの問いを胸に臨んだといいます。周恩来総理らとの交流を重ねた古井氏は、「共産党政権には民意の基盤があり安定している」「特色ある社会主義は可能性を秘めている」「政策の後押しで日中関係の未来は明るい」と確信しました。こうした信念のもと、生涯を日中友好に捧げ、衆議院議長として会館設立を強く後押しし、自ら初代会長を務めたのです。
同時に、現実を直視する必要があります。日中関係の課題は一朝一夕に生まれたものではなく、困難な時こそ政治家の力量が問われます。最近、鳩山由紀夫元首相が中国の「抗日戦争勝利80年」記念式典に招かれ出席しました。日本が歴史を反省し平和を重んじる姿勢を示す好機でしたが、国内では批判もありました。鳩山氏は「日本の国益を守り、真の日中友好を進めるため」と語りましたが、残念ながら今の日本には彼のような戦略的ビジョンと覚悟を持つ政治家は多くありません。
会館は日中共同事業のプラットフォームとして、近年も積極的に民間外交を展開しています。新会長の宮本雄二元駐中国大使は、就任から一年足らずで十数回訪中し、指導者や関係者と意見交換を重ねました。国慶節前には長野県の青少年芸術団を率いて訪中し、雄安新区で中国の子どもたちと合同演奏を行い、大きな感動を呼びました。また昨年後半からは、中国人権基金会や上海国際問題研究院と共に「日中友好・人文交流フォーラム」を開催し、学識者の交流を支援しています。さらに会館美術館では展覧会や映画会を開催し、「長安 夜の宴 唐王朝の衣食住展」には1万人を超える来場があり、過去40年で最多を記録しました。青少年交流プロジェクトも順調に進み、9月3日の軍事パレードには青少年代表団を派遣しました。
―― これまでのご経験から、政府外交と民間外交にはどのような違いがあるとお感じでしょうか。また、在日華僑華人はどのような役割を担うべきでしょうか。
黄星原 私は外交の仕事に40年携わってきました。最初の35年は政府外交に、直近の5年は民間交流に関わっています。形は違っても、目指すところは同じです。
政府外交と民間外交は本来区別すべきではありません。政府外交には国民の支持が不可欠であり、いわばパブリック・ディプロマシーの実践です。一方、民間外交にも政府のリードと支援が必要で、両者は補完関係にあります。
私の経験では、政府外交時代は主に政府関係者やシンクタンク、メディアへの対応が中心で、中国の立場を説明し、交渉が多い仕事でした。これに対し民間外交は対象も活動も多様で、地方でのプレゼンや展覧会、式典でのスピーチ、時には中国料理や功夫茶を通じた文化紹介も行います。その中で気づいたのは、政府より民間、中央より地方、官僚より企業、メディアより民衆の方が前向きで公正だということです。こうした動きこそ、会館をはじめとする民間友好団体や日中友好人士の活躍の広がりを示しています。
会館の多くの活動は在日華僑同胞の皆さまのご協力によって支えられています。この場を借りて、心より感謝申し上げます。100万人を超える在日同胞は、中華文明と中国経済の成果の享受者であり、変化する日本社会の証人であり、日中友好の架け橋であり推進力でもあります。
在日の皆さんへのアドバイスとして、10年前に娘に語った言葉を繰り返したいと思います。第一に、法を守り規律を重んじ、親に恥をかかせないこと。第二に、健康で前向きに生き、母親を心配させないこと。第三に、勤勉に働き、国家と国民に貢献し、故郷の発展に尽くすこと。第四に、相互理解の架け橋となり、日中友好に貢献することです。
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