終戦から1世紀近くが過ぎたものの、戦争によって引き裂かれたあの歳月を経験した一人一人の心に刻み付けられた記憶は今も決して消えてはいない。
中国残留日本人孤児もまた戦争の被害者であり、戦争によって家族を失い、異国に取り残された。そんな彼らは善良な中国人に引き取られ、愛情を受けながら、平和な環境で育てられた。
清野明さん(84)は、「戦争によって多くの家族が離散し、多くの人が亡くなった。これはとても残酷なことだ」と悲しみに満ちた声で語った。清野さんの父親は戦争で亡くなり、母親に連れられ、妹と共に逃げたものの、その妹は道中、不衛生な水を飲んだことで赤痢となり、山の中で最後を迎えたという。
若生豊美さんは5歳の時に、両親と姉2人と共に中国に渡った。しかし、戦争は無情にも、彼女の母親の命を奪い、父親も徴兵され戦地に行ってしまい、幼かった彼女と姉たちは帰る家のない孤児となってしまったという。「今でもこの話をすると、涙がこぼれそうになる」と声を詰まらせていた。
戦争の暗い影に覆われながらも、愛の光が消えることは決してなかった。中国残留孤児たちが、それぞれの中国の養父母について語る言葉には、感謝と敬愛の情に満ちていた。
NPO法人中国帰国者・日中友好の会の池田澄江理事長は、「養母のことは永遠に忘れない。それは常に思っていること。本当は日本人の子だと、8 歳の時に初めて知った。その時はとても悲しく、恥ずかしいと感じた。でも養母は日本人が皆悪いのではなく、軍人や政府が悪かったのだと優しく諭してくれた。養母は学校に行ったこともなく、字も書けなかった。でもとても心優しく、人生において色々なことを教えてくれた。もし養母がいなかったら、今の私はいない」と涙交じりに語った。
彼女はこれまで中日友好の第一線で活躍し、中国残留孤児を積極的に支援し、中日友好交流イベントの企画などを行ってきた。
中日の国交が正常化して以降、中国残留孤児たちは次々と肉親を捜し、日本へ戻ってきた。しかし言葉が通じなかったり、生活習慣の違いから、残留孤児たちが日本の社会に完全に融けこむことは難しかった。
残留孤児2世が立ち上げた介護施設「一笑苑」は、こうした残留孤児のために、自由に交流したり、安心して老後を過ごしたりできる場所を提供している。「一笑苑」の代表取締役である佐々木弘志さんは、「残留孤児2世である私たちは、中国人でもなく、日本人でもない生活を経験してきた。人並みに生活するためには、他の人の何倍も努力しなければならなかった」と話す。
こうした苦難は、最終的に「平和であってほしい」という素朴な願いへと変わった。残留孤児たちは「平和が一番。戦争がなければ皆幸せに暮らせる」「世界が平和であることが一番の願い」と語り、これは戦争を経験したすべての人の心の声であり、未来への願いでもある。
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