日中関係の歴史においては、両国の友好に尽力した多くの先人がいる。現在もなお、彼らの子孫が日中友好交流の最前線で活躍し、新たな歴史の一頁を刻んでいる。このたび本誌は、大平正芳元首相の孫娘で、著名なメディアプロデューサーの渡邊満子さんにインタビューする機会を得た。
大平正芳氏は、日中関係の進展に重要な役割を果たした人物である。1972年に、田中角栄首相や周恩来総理とともに日中国交正常化を実現。1974年には『日中貿易協定』の締結に貢献。1979年には日本の首相として訪中し、対中政府開発援助を表明した。2018年には「中国改革友誼勲章」が授与され、名代として渡邊満子さんが受け取った。
―― お祖父様が初めて訪中された当時、渡邊さんはまだ10歳くらいだったと思いますが、当時の様子は覚えていますか。
渡邊 よく覚えています。1972年、祖父(大平正芳)は田中内閣の外務大臣で、父(森田一)は秘書官を務めていました。訪中の決定に対して、当時の日本国内では反対の声が非常に強く、毎日のように右翼の街宣車が我が家の前にやってきては、大型スピーカーで『軍艦行進曲』を流していました。雨戸を閉めても、耳をつんざくほどの大音量でした。実際に殺害予告もありました。
身の安全を守るため、空港へ向かう車が家を出発する際、先頭に陽動用の車が走り、祖父の車はその後に続きました。羽田空港へ向かう高速道路は全線封鎖され、窓の外には点滅する赤色灯だけが見えました。家族全員が覚悟を決め、私も一緒に空港まで見送りに行きました。田中角栄と大平正芳でなければ、そして周恩来総理でなければ、国交正常化は実現できなかったと思います。祖父は戦時中に張家口で1年間暮らした経験があり、周恩来総理も日本への留学経験があったので、互いに両国の違いを理解しており、真の友人となるには双方が大きな努力を払う必要があることをよくわかっていたのです。
帰国の機内で、祖父は父にこう語りました。「将来中国の経済が発展すれば、30年後、40年後にはまた新たな問題が出てくるだろう」と。祖父はすでに今日を予見していたのです。だからこそ、これから最も大事なのは人と人との交流だと繰り返し語っていました。祖父は、日中文化交流は当時の現実的課題であり、さらには長期的友好のカギだと考えていました。祖父の先見の明と胆力には、今も深く敬服しているところです。
―― 大平正芳先生は、1979年の施政方針演説の中で「経済中心の時代は終わり、これから文化を重視する時代が来る」と述べられました。いま、この言葉の重みはますます増しています。渡邊さんもお祖父様の遺された文化的使命を受け継がれているように感じます。
渡邊 祖父は「人にとって最も大事なのは物質ではなく、コミュニケーションと理解だ」と常々語っていました。人を大切にし、心を大切にする――この考え方は私にも大きな影響を与え、文化交流活動の中で一貫して実践してきました。
私は番組プロデューサーとして、『キューピー3分クッキング』を20年以上監修し、北京出身のウー・ウェン(呉雯)さんを番組に紹介させていただきました。これも日中文化交流のひとつだと思っています。彼女は妹のような存在で、今も親しくしています。また、日本テレビ開局55周年記念番組『女たちの中国』を企画・制作しました。執筆活動では『皇后美智子さま 心の架け橋』を出版し、日中平和友好条約締結45周年を記念して中国語版も出版されました。現在は、日本の舞台芸術の振興、特に東京バレエ団の支援に力を注いでいます。
自分ではバレエは踊れませんが、子どもの頃からダンスが大好きで、ジャズダンスやタップダンスも学びました。没入感の高い舞台パフォーマンスは観客の心を深く揺さぶるものがあります。日本舞台芸術振興会(NBS)の評議員として、こうした感動を中国の皆さんにも紹介したいと思っています。NBSは世界各地からバレエ団やオペラ団を東京に招き、舞台装置ごと日本に持ち込んで上演しています。日本を観光で訪れたり、日本在住の中国の方々もわざわざウィーンやローマまで行かなくても、東京で鑑賞できます。
NBSは東京バレエ団と付属のバレエ学校も運営しており、今年5月には北京や深圳などでの講習会にも招かれました。中国の親御さんや子どもたちのバレエへの情熱は私の想像を超えるもので、だからこそ、より良い学習環境を提供したいと思っています。今後はコンクールの開催も計画しています。NBSのプラットフォームを活用し、この情熱を成長のエネルギーにしていきたいと願っています。
―― 以前に招聘した中国障害者芸術団の『千手観音』公演では、多くの日本の観客が感動し、終演後には長い握手の列ができました。
渡邊 はい。私にとっても忘れがたい体験でした。当時、私は日本テレビで番組プロデューサーを務めていて、北京の稽古場まで足を運び彼女たちのドキュメンタリーを撮影しました。『千手観音』の演者は全員が聴覚障害をもつ方々で、私も中国語ができませんでしたが、むしろ心と心で通じ合えたように感じました。
―― 渡邊さんの文化活動の中でも、映画は大きな柱の一つかと思います。NPO法人日中映画祭実行委員会の副理事長を15年連続で務められ、東京国際映画祭の中国映画週間も年々影響力と評価を高めています。この15年、中国映画と関わる中で特に印象に残った瞬間はありますか。
渡邊 中国映画について語るなら、1978年の改革開放が大きな転換点だったと思います。当時、日本の映画やテレビアニメが大量に中国に流入し、それまで閉ざされていた文化の扉が一気に開かれました。日本のファッションショーが初めて中国で開催されたのもその頃です。私の友人でもあるファッションデザイナーのコシノジュンコさんは、「当時、北京にショーをしに行ったら、飛行機を降りた瞬間、衣装の運搬をしていたのはロバだったのよ(笑)」と話してくれました。
改革開放を境に、中国は目覚ましい発展を遂げました。文化の力がいかに大きいかを物語っています。特に、映像文化は言語や国境を越えて人の心を打つ力を持っています。
近年、中国映画・ドラマのレベルは各段に上がっています。5年前と比べても、技術面だけでなく「いかに人の心を動かすか」という表現方法においても大きく進歩しました。『哪吒(ナタ)』がまさにその代表です。この進歩を目の当たりにすると、日本映画の行く末が心配になります(笑)。中国映画週間で紹介される作品は毎回きちんと拝見していますが、近年最も印象に残っているのは王一博主演の『熱烈』です。やはりスターの力はすごいですね。
現在私は、隠元禅師を主人公にした日中合作映画『禅聯天下』の企画を進めています。この作品は、隠元禅師の思想や人間的魅力を深く掘り下げ、日中両国民の切っても切れない文化的起源と歴史的なつながりを描くものです。監督はアカデミー賞受賞監督の滝田洋二郎先生に決まりました。「アジアの文明対話」とも言える作品になることでしょう。
―― 2018年12月には、大平正芳先生の名代として、中国で「中国改革友誼勲章」を受章されました。これまで中国ではどの地域を訪れましたか。また、今後行ってみたい場所はありますか。
渡邊 2024年6月には、薛剣駐大阪総領事からお招きいただき、雲南にある樹齢3200年の茶樹王を見てきました。道のりは長かったですが、感動的な体験でした。おそらく薛剣総領事は、私が隠元禅師に関する映画を企画していることをご存じで、こうした手配をしてくださったのだと思います。
四川・成都のパンダ繁殖基地に行ってみたいですね。祖父からこんな話を聞いたことがあります。交渉が終わった後、一行は深夜に中南海を訪れて毛沢東主席に会いました。毛主席は友好のしるしとして特別な贈り物をすると言い、「大熊猫」と書かれたそうです。祖父はそれを見て「これは熊ですか? それとも猫ですか?」と尋ねたのです。翌日、「熊? それとも猫?」という祖父の言葉が日本の新聞に載り、著名な司会者の黒柳徹子さんに「大平さんは何も知らないのね!」と酷評されたとか(笑)。祖父はこの単語を最後まで覚えられず、よく真面目な顔で「ほら、あの白黒の熊、なんて言ったっけ?」と私たちに尋ねていました。もしかしたら、祖父はそもそも物事を白黒つけるのが好きではなかったのかもしれませんね(笑)。
『皇后美智子さま 心のかけ橋』を執筆した際には、こんな心温まるエピソードを知りました。1959年、美智子さまがご成婚の際、皇室に持参された嫁入り道具の中に、パンダのぬいぐるみが入っていたのです。祖父が中国で「大熊猫」という言葉を初めて聞く13年も前のことです。そのぬいぐるみはアメリカから来たもので、銀座で展示販売されていました。店頭には2体しかなく、1体はすぐに売れ、もう1体を聖心女子大学の学生たちが購入し、クラスメートだった美智子さまに結婚祝いとして贈ったのです。美智子さまと中国との縁はすでにその時に始まっていたとも言えます。ですから、四川に行って、この目でジャイアントパンダを見てみたいのです。
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