「未来志向」を求めて(2)
戦後80周年、“平和主義”の現在地

未来の平和を担うのは、子どもたちや青年の世代である。彼らの戦争/平和観は未来の東アジアに直接繋がっていく。

今年4月はじめに、岐阜県瑞浪市の強制連行跡地を訪れる機会を得た。航空機の地下工場建設のため、中国と朝鮮半島から強制連行された人々が奴隷労働に従事させられた。暗い地下道で換気も悪く、ツルハシでの手掘りが危険で困難だったことが感じ取れる(写真1)。中国人330名のうち39人が死亡した苛酷な現場だった。朝鮮人は900名以上が連行されたというが詳細は判明していない。他の現場を訪れた時もそうだったが、こうした歴史遺跡を守り抜いているのは高齢の日中友好人士が多い。

写真1:地下道の跡

地下工場の真上には慰霊の念を込めた「日中不再戦の誓い」の碑が建つ。碑の下にあるベンチでは、小学生数人が遊んでいた。戦後80周年記念番組を製作している中国の取材スタッフが同行していたことから、子供たちは機材に関心を示していた。声を掛けると交流が始まった(写真2)。目の前にある不再戦の碑について聞いてみた。子供たちが知っているという戦争は、広島・長崎の原爆と沖縄戦だけだった。戦争といえば都市空襲というイメージなので、戦場は日本だと思い込んでいる。中国や朝鮮半島など国外が主戦場だったという認識はほとんどなく、「日本が敗けたの?」と驚いてさえいた。

写真2:不再戦の誓いの碑と子どもたち

私自身が同じ小学三、四年生だった頃も、平和学習といえば原爆被害が中心だった。ただ、植民地支配や虐殺の歴史などもある程度学んだ。日本が中国や朝鮮半島を侵略し、敗戦したという認識は持っていたと思う。ここで出会った子供たちが特殊だったのか、それとも、侵略加害の前史を曖昧化する日本の“平和教育”の趨勢が実際に加速しているのか。ネットや書店には日本の侵略性を否定する言説が溢れる。“謝罪を終わりにする”という「安倍談話」もほとんど問題視されなかった。「被害者意識」に根ざした“平和主義”がもはや日本社会に定着していると考えた方が自然だ。戦争を直接体験した戦中世代さえ、多くの被害者を苦しめたという深い自己反省から平和主義に転じたわけではない。戦争はもう懲り懲りだ、戦争は悲惨だからなくそうという一般論としての“平和主義”がこの国の戦後を支配してきた。

子供たちには、この下の地下道には中国や朝鮮半島から無理やり連れてこられた人が何百人もいて、殴られながら危険な作業をさせられたこと、実際に多くの人が亡くなり病気になったことを話した。ろくに服も着せず、食事さえ満足に与えなかった事実も伝えた。そして、二度とこういう過ちを繰り返さないように誓って作ったのがこの碑だと紹介した。はじめて聞く話のようで、子供たちは幾分怪訝な顔をしていた。ただ、話しているうちに彼ら自身が、二度とそういうことにならないよう平和を守ろう、仲良くしようと口にし始めた。事実を伝えればきちんと理解し、他者の苦しみを感じ取り、何をすべきか判断する力を持っている。子供たちにどのような学校教育を行うのか、市民にはどんな社会教育が必要なのか、未来はそれで大きく変わりうる。これまでの独りよがりの“平和教育”、「被害者」としての“平和国家”アイデンティティでは、隣国と未来を共有できないままである。

子供たちに語りかけたのは地元岐阜で国語教員を務める今井雅巳さんだった。今井さんは長年、郷土の戦争遺跡や体験の掘り起こし、保存に取り組んできた。強制連行や731部隊、アヘン栽培などの戦争犯罪に関与した元兵士らの聴き取りも続け、加害の側面にも向き合ってきた。岐阜大学の平和学講座ではその取り組みを学生たちに伝えてきた。テレビ取材班は地下工場を訪れる前に今井さん宅を訪ねて、平和教育と学生の反応についてインタビューした。

博物館学芸員の経験を持つ今井さんは、現物を使った平和教育を重視していた。自宅広間に竹槍、木銃、銃剣、拷問道具のほか、ヘルメットや女性が着ていた割烹着などを拡げ、中国人スタッフに一つ一つ説明しながら授業の様子を再現した(写真3)。

写真3:銃剣を手に説明する今井さん

取材に当たった20代の中国人プロデューサーは、やがて不思議そうな顔で質問した。「平和学なのに、学生に平和を生み出す方途や理論を教えるのではなく、戦争の時代の道具や使い方を教えるのはどうしてですか」。

今井さんは、学生だけでなく教員である自身ももはや直接の戦争体験がない、だからこそ必要だと力説する。「実際の武器や道具を見て、触って、戦闘とは何だったのかを自分で感じ、想像する。モノの向こうにどんな相手がいたのかにまず思いを巡らせることが必要です」。銃剣や拷問器具に触ったこともない学生たちは、当時それを誰に対して使ったのか、どのようにして殺そうとしたのかを、はじめて具体的に想像し始める。そうするなかで、「“どんな戦争”だったのかを考えるようになっていくんです」。武器を持って他国に押し入れば、そこに被害者が生まれる。被害事実を加害側が曖昧にしたり蓋をしたりするなら、過去は“歴史問題”になって次の世代に引き継がれていく。戦争の実態を知らないと、日本は既に「平和」なのになぜ平和を学び、追求する必要があるのか分からないと思い込んでしまう。そうなると、「どんな平和が必要なのかも分からないままになります」と今井さんは強調した。

“歴史問題”を取材する若いスタッフにとっても、戦争そのものははるか遠い時代の出来事と感じるのだろう。怪訝な表情を残しながら、返す言葉なく頷いていた。これは、中国の若い世代にとっても戦争/平和が抽象的なものとして捉えられがちであることを示している。戦争や戦後の混乱を直接経験した世代と現在の若い世代との間にある落差に比べて、日中の若い世代は置かれた情況にある種の共通性がある。戦争体験者がほぼいなくなった戦後80年のいま、<過去に対する運命共同体>を生きている。戦争に関する情報や意味付けが溢れ返るなか、それに自分なりに向き合うだけの身体経験がない。逆にいえば、「分からなさ」を出発点にして、事実を確かめ合いながら等身大で向き合っていける地平に立っているといえる。手探りで過去に向き合うという<現在>が、日中間あるいは東アジアで共有可能な新たな<平和主義>を拓く微かなルートになりうる。今井さんがその先駆者であることは次回に述べたい(続く)。