戦争が終わった時点から80年も経った「今」は、当時からすれば十分に「未来」だった。「未来志向」という言葉は、戦後ほどない頃から使われてきた。未来だけを見ても、より良い未来は作り出せそうにない。
未来は、現在そして過去と繋がっている。もし昨日までの記憶をすべて無くしたら、今日をどう生きればよいか分からなくなる。周囲の人たちには昨日の記憶があるなら、自分だけが勝手な現在や未来を作るわけにもいかない。時間は連続しており、しかも隣人と共有している。
未来志向とはどうあることなのか、多様な人物や出来事に光を当てながら見出していく連載にしたい。筆者の他にも中国と日本の境界に生きる人の声も伝える。
* * *
まだ肌寒かった3月はじめの北京で趙阿萌さんに再会した。8年前に山西省太原市で、軍人だった父の戦争体験を聴かせてくれた。
この日、趙さんが話し始めたのは、ごく最近、現地視察で訪れた東京の病院についてだった。患者に安心感を与える治療環境、分かりやすい動線、華美さを排した効率的な空間に感心したという。中国の病院で何度か治療を受けた私には、やや褒めすぎにも聞こえる。ただ、彼のように、日本の優れたところを取り入れるべきと考える人たちは決して少なくない。世論調査では日中間の相互イメージが悪化していると報告されているが、私の周囲では日本への評価はきわめて高い。良くないのは、侵略の事実を否定し、戦争責任を曖昧化する姿勢ぐらいだろう。
趙さんもそうだ。彼は父の抗日戦を今年もう一度文章にしたいと語った。日本社会には学ぶべきところと、憂慮すべき側面が同居していることを肌で感じ取ったのだろう。彼の目に映った日本の現在は、過去とも未来とも繋がっている。世論調査はこの複雑さに迫れているだろうか。
趙さんは「父の足爪」について書く予定という。子どもの頃、彼の父が自分では足の爪を切れず、妻に任せているのを見た。「男のくせに自分で切らずに恥ずかしい」と父をからかった。周囲の人から聞かされた「お父さんは戦闘の英雄だ」という評判と相容れなかったからだ。事実は、父が抗日戦争のなかで足に大怪我を負い、感染症がずっと治らず、爪が分厚くなって自分では切れなかったのである。父本人はそんな話もせず、事情は知らないままだった。
体験を直接聴いたのは一度だけだった。1993年、70歳を過ぎても多忙な父から連絡があり、太原市で車を手配するよう言われた。父の指示で、戦時中に競馬場だった場所を探し回った。父はときどき車を止めて歩き出し、やがて柏の林の近くにある川の曲がり角に辿り着いた。父は「ここだ」と言って、当時の出来事を語り始めた。
1942年7月、父は日本軍の捕虜の一人としてそこに連れて来られた。道路修理のためと道をならし、穴掘りをさせられた。やがて、少し離れた林の奥から、中国人女性の罵声や呻き声が聞こえてくると、誰もが情況を察した。日本兵はすぐに彼らを銃剣で脅して縛り上げ、跪かせた。日本軍の将校が現れると縛られた八路軍の捕虜を一列に並べ、若い日本兵たちに「生きた的」として銃剣で刺すように命じた。後ろの列にいた父はたまらず、縛られた紐を力任せに引きちぎって川へ走り出した。日本兵が銃剣を構えて追ってきたが、父は彼らを蹴り飛ばし、川に飛び込んだ。夏で水量は少なかったが丸石や枝が散らばっていた。重い軍靴を履いていた日本兵は川の中を走れず、岸から追いかけた。父は常に身体を鍛えていて体力に優れ、日本兵よりも速く川底を走った。日本兵が銃剣に弾丸を装填していなかったのも幸いだった。走りながら周囲を観察した父は、遠くに村があるのが見えた。川の地形や枝で身体を隠しながら村に逃げ込んだと見せかけ、日本兵が村へ向かっている間に追跡を振り切った。逃げる途中で靴を失い、川の中を走るうちに枝や石が肉に刺さり、骨まで見えるほどになった。爪も剥がれた。
今思えば、父はどれほどの痛みに耐え、どれほどの意志力を持っていたのか。あの状況で一人で逃げ出せたのは、まさに奇跡だった。
趙さんはここまで淀みなく一気に語った。続きを紹介する余裕がないが、何度も機転を利かし「九死に一生を得る」エピソードの連続に聴き入った。
私は、彼の父がどんな語り口だったか聞いてみた。「父はとても冷静」に語り、むしろ趙さんの方が「心は平静ではなかった」という。「不屈の精神と革命の志に大きな衝撃を受け、深く教育された」。
父がこうした機会を設けたのは、戦争体験を次の世代に継承させようとする取り組みが背景にあったという。「未来志向」が奏功し、日中間に歴史問題など存在していなければ、不要だったかもしれない。趙さんは日中が手を携えて発展する「未来」に生きていたかもしれない。
むしろ、これだけ苛酷な経験をしながら父子ともに冷静に語り、個人的な怒りや恨みを発することもない。世代間の「教育」の機会としてさえ捉えている。
この感覚には既視感があった。2009年に住岡義一という元戦犯に話を聴いたことがある。住岡は山西省で従軍し、新中国の戦犯裁判で懲役11年の判決を受けた。趙さんの父が刺殺の淵に立たされた時、命令を下した将校の一人が住岡だった。裁判では、当時30代だった趙さんの父が住岡に対する告発状を提出している。日常的な虐待に対する激しい怒りに満ちた内容で、90年代の語りとは掛け離れている。
住岡は高齢と病気のため記憶がかなり薄れていた。しかし、「有期刑判決を受けた45人の戦犯のうち、最後の一人として生きていることについてどう思うか」という質問にはしっかり答えた。「まだ反省が足りていないという意味でしょうか」。住岡は、他の帰国戦犯らとともに平和活動に取り組んだ。筆者らの訪問時は、自身の加害行為の記録を遺そうとしていた。彼自身の反省だけでなく、彼が働きかけてきた戦後日本社会の「反省」も、そのための自身の努力も「足りない」という反省のように聞こえた。
住岡も趙さん父子も、戦争体験を個人的なものではなく共同体の経験や責任として、あるいは、過去ではなく現在そして未来と繋がったものとして捉えている。8年前、住岡の「反省」を伝えた時、趙さんはただ静かに頷いていた。過去を正しく共有できれば、現在と未来を共有できる。被害と加害の間に橋を架けることができる。
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