水戸學再検討の時代(2)――大日本史編纂―
歴史の百川が大河となり巨海を生む

方塔園

上海の中心部から南西にクルマで一時間ほどの黄浦江の上流、長江デルタ地帯に位置する松江区の方塔園に明朱舜水記念堂がある。浙江省余姚生まれの朱舜水が、この松江で育ち、学んでいる。明朱舜水記念堂はその朱舜水の住居を方塔園に移したものである。その明朱舜水記念堂に、朱舜水と徳川光圀の座像と大日本史全巻、西山荘の朱舜水の記念碑などの写真が掲示されている。

その傍に北京大学教授の李大釗とジャーナリストで清華大学教授の梁啓超による明朱舜水記念堂開設の趣意書が掲げられており、「朱舜水先生と徳川光圀公は、日本が最も安定した徳川時代を築いた中日交流の礎である」と紹介されている。李大釗は中国共産党創設時の主要メンバーで初期の毛沢東に影響を与えたとされ、梁啓超は中国で最初にマルクス主義の学説を宣伝した人である。

この中国の二人の「知の巨人」は、朱舜水の儒教思想を中心に国学・私学・神道を結合させた水戸學こそが、吉田松陰や西郷隆盛などの幕末の志士に大きな影響を与え、尊王攘夷派の思想的基盤を築き、明治維新の原動力になったことを熟知していたのだ。

朱舜水を高く評価した李大釗(左)と梁啓超(右)

この朱舜水と徳川光圀の絆こそ大日本史編纂の源流であり、200年後の明治維新の原動力となったのである。光圀と朱舜水の魂が、儒教の歴史をひも解き、200年もの長きにわたり絶えることのない百の河川は大河となり巨海に注ぎこんだのである。それが『大日本史』である。大日本史なかりせば、水戸學も生まれず、幕末明治維新も成し遂げることはなかったのである。

徳川光圀が『大日本史』編纂に取り組むきっかけは、光圀が伯夷伝(中国の歴史書『史記』の中の伯夷の伝記)を読み感銘し、伯夷の道義の尊厳、とりわけ君臣の大義に目覚めたことに始まる。三代目藩主の綱條(つなえだ)は、『大日本史』の序文の冒頭に、“先人十八歳、伯夷伝を読み、決然として、その高義を慕うあり”との名文を書いている。

綱條は光圀の兄で高松藩主に転じた頼重の次男で、光圀の養子になって水戸徳川の三代目藩主になっている。これは光圀が、伯夷伝に習い兄・頼重の恩義に報いたのである。また、光圀が生涯の師と仰いだ明の遺臣である朱舜水を賓師として招聘し、その実学、実利を学んだが、歴史の正当性を諭されたことも『大日本史』編纂の修史事業に取り組む動機となっている。

特に明暦3年(1657年)に始められた『大日本史』編纂は、着手してから250年もの歳月を要して、明治39年(1906年)10代藩主慶篤の時に完成している。『大日本史』は、朱舜水の助言もあり、中国の『史記』を主とする支那正史の記述法を編纂方針とした人物の本位の歴史が大部分である。また「事実を詳細に調べ、事実を事実として明瞭に記す」ための膨大な資料収集は全国規模に及んだ一大事業であった。

対象は、京都、奈良、吉野、紀州方面はじめ山口、尾道、福山、出雲、さらに九州では博多、長崎、鹿児島、坊津、日向、志布志、延岡、安蘇など広範囲に及んでいる。とりわけ京都では下冷泉家の冷泉為景の心からの協力を得て、伏見宮家など京都、奈良の旧家・古跡に関する膨大な蔵書、資料の閲覧と書写に取り組んでいる。この冷泉為景は、光圀について「古を好む志深く、和歌の道に励み、和漢の書の蒐集に務め、集めた蔵書は、引っ張るのに牛馬が汗をかき、積み上げると家の軒下まで届くくらい多い」と、光圀の読書量と蔵書に感銘したと伝わる。

第一の本記は歴代天皇(神武天皇から後小松天皇まで)の治績で73巻、第二の列伝は皇紀・皇子・皇女のほか、諸臣伝記、将軍・将軍家族・将軍家臣伝、文学伝、歌人伝、孝子伝、義烈伝、烈女伝などで110巻、第三の志という部門の十項目の特殊史が126巻、第四の臣連二造・公卿・国郡司・蔵人・検非遺使・将軍僚属の表が28巻、目録が5巻で合計402巻にも及ぶ日本史上最大規模の歴史書である。

朱舜水遺書

この編纂事業の初期には、朱舜水が漢籍文化を講義した安積澹泊や木下順庵、山鹿素行が編纂に関わっており、『大日本史』編纂には朱舜水の実学の影響が大きかったと思われる。高須芳次郎編『水戸学全集』全六巻(日東書院:昭和8年4月発刊)の第三篇「安積澹泊集」の解題冒頭で高須芳次郎は澹泊が果たした大日本史編纂の業績について次のように述べている。

◎・・・澹泊は八十八歳の長寿を保ち、義公(光圀)に随従して、多くの仕事を『大日本史』の上において為した・・・

◎江戸時代の史学者には、新井白石のように科学的立場を主としたものと、頼山陽のように詩人的立場にいたものと、水戸学派のように大義名分主義、道徳至上主義に起った一派とがある

◎水戸学派は何處迄も道徳至上主義を守り、道徳の原理に照らして、史実に対する批判を下し、それによって記述の方針を決めた。無論、道徳至上主義に起っているとばいうものの、頭から主観本位に歴史を見たり取扱ったりしたのではない。・・・歴史上の事実を批判してゆくについても、史実の研究に関しては飽く迄も科学的態度を執った。茲に水戸学派の大きい特色がある。

◎儒教の精神に必ずしも囚われないで、程よくこれを生かして、歴史上の出来事に道徳的判断を下したのは、『大日本史』の一特色とすることが出来る。

その後、200年余の時を経て、『水戸學』が果たした歴史上の役割は計り知れないが、光圀と朱舜水が語らいあった水戸學の道徳至上主義の「仁」と「徳」は、人間規範の倫理観として幕末において国家をまとめる精神的支柱となったのである。

(つづく)

岡野龍太郎

1947(昭和22)年長崎市生まれ、水戸市出身。中央大学卒。時事通信ニューヨーク特派員、衆議院政策担当秘書、経済産業大臣政務秘書官などを経て中国・青島大学名誉研究員。現在、森田塾を承継した岡野龍太郎塾代表。代表作『反骨の系譜――常陸国政治風土記物語―』(論創社)