琉球館-中琉友好交流500年余の証

金秋の爽やかな秋晴れが広がる10月、福州での交流会に参加するため、梁氏の国吉克哉さんと陳氏の仲本榮章さんを案内しました。彼らは「閩人三十六姓」(1392年、明の洪武帝によって琉球王国に遣わされた福建出身の職能集団を起源とし、以後300年間にわたり中国から渡来した人々や、首里や那覇の士族から迎え入れた人々)をルーツに持つ末裔です。この訪問は、9年ぶりに再開された福州-那覇間の定期便を利用して実現しました。この便の再開は、7月28日に福建省の周祖翼書記が沖縄を訪れ、照屋義実副知事との会談を通じて友好姉妹県省交流の一環として実現したものです。

元中国共産党福建省常務委員・福州市委員会書記・福州市人民代表大会常務委員主任習近平氏が那覇市久米崇聖会会長仲本昌達氏一行と会見

福州訪問は、両氏にとって特別な意味を持ちます。「閩人三十六姓」の末裔によって設立された組織、一般社団法人久米崇聖会の元理事長である国吉さんの始祖・梁嵩は、明の皇帝の命を受け、福州長楽から琉球へ渡りました。3期6年間理事長を務め、福建と沖縄の様々な交流に携わってきた国吉さんにとって、再び福州の地を訪れることは非常に感慨深いことです。特に、仲本さんにとっては、父・仲本昌達氏の生まれ故郷である福州を5年ぶりに訪問できることに大きな期待を抱いています。彼の祖父、仲本英炤(中国名:陳守約)氏は、激動の1900年に福州に移り住み、久米村人としての誇りを失わず、福州と琉球のアイデンティティを持ち続けたと熱く語ってくださいました。

明朝洪武五年(1372年)以降、琉球国は中山を中心に明朝と正式な朝貢関係を結び、中国王朝を中心とした東アジアの宗藩体制に組み込まれました。以後、約500年間にわたり、琉球国は万国津梁として繁栄し、琉球大交易時代と呼ばれる中継貿易の中心として発展しました。その中で、福州にある琉球館(柔遠驛)は、冊封と進貢を軸とした中琉交流史において重要な役割を果たしました。

琉球国が1372年以降約1世紀の間、明朝が琉球使節を受け入れる最初の窓口は福建省泉州の「来遠驛」でした。明成化8年(1472年)、琉球国の朝貢事務を管理する機関である「市舶提挙司」が泉州から福州に移転され、福州東南の水部門外(河口地区)に「懐遠驛」という施設が建造されました。この施設は、琉球使節の宿泊所や接待所として使用されました。萬暦年間(1573-1620年)には、「広州懐遠驛」や「泉州来遠驛」と区別するため、福州の琉球館は「柔遠驛」と改称され、次第に琉球人専用の施設として「琉球館」と呼ばれるようになりました。「柔遠驛」の名前は『尚書·舜典』の“柔遠能迩”に由来し、「遠くから来る異国人を優待する」という意味を持ちます。

「驛」とは、旅館や宿泊施設を指します。「優待」という言葉に関連して、明・清の政府は琉球からの朝貢に対して、「厚往薄來」(中国が手厚く接待し、琉球からはわずかな贈り物を受け取る)という方針をとっていたことがわかります。朝貢貿易では、一定の範囲内で私貿易も認められ、さらに琉球国王や使節には、中国皇帝から頒賜品(朝貢に対する返礼品)が授けられていました。

明清時代、琉球館は様々な役割を担っていました。以下の5点にまとめて整理します。

第一に、政治的な役割です。冊封使節団や進貢使節団の重要な拠点として機能しました。明清時代、琉球はほぼ2年に1回進貢使を派遣しており、毎回約300名が2隻の進貢船に分乗し福州へ派遣されました。さらに、進貢使節団を迎えるために1隻の接貢船(約150名)が派遣され、福州滞在中は琉球館を拠点に活動していました。琉球館は、琉球国の中国における出先機関として、使節団や随員、福州駐在の琉球役人(存留官伴)の宿泊施設兼執務所として機能し、欠かせない存在でした。

第二に、中継貿易センターとしての機能です。冊封使の陳侃(1507-1538)の『使琉球録』によれば、中琉貿易の本質は中国と朝鮮、日本、東南アジア諸国との貿易であると指摘されています。進貢船や接貢船から琉球館へ運び込まれた積載貨物は、東南アジアや日本、朝鮮諸国から集めた馬、硫黄、螺穀、海巴、牛皮、磨刀石、蘇木、胡椒、倭扇、漆器、紡績品などです。琉球商(市舶司によって選定され、市舶司に仕えていた琉球取引専任の仲買業者)は、中国各地から商品やお土産を仕入れ、琉球館に持ち込み、その後琉球に持ち帰った後、日本や東南アジア諸国へ転売しました。

第三に、中琉文化交流の拠点としての役割です。明清時代、琉球国から中国に派遣された留学生の多くは、久米村出身の閩人三十六姓の子孫でした。進貢船や接貢船で派遣される琉球使節の中には、北京国子監で学ぶ「官生」と呼ばれる留学生や、福州で儒家文化、思想、教育、各種の専門知識や生産技術を学ぶ「勤学」と呼ばれる留学生がいました。「官生」は国費留学で中国政府が学費を負担しましたが、「勤学」は私費留学で、平均3年から6年間滞在していました。彼らは中国の先進文化や技術を学び、帰国後に琉球王府や社会の発展、そして中琉両国の政治、経済及び文化交流に大きく貢献しました。

第四に、漂着琉球人の収容・救済・送還センターとしての役割です。乾隆二年(1737年)に「遭難船救護・送還規定」が制定され、中国側は漂着者に対し、食料や衣料の支給、船舶の修理、積載貨物の収集・返還などを全額負担しました。琉球人がどの中国沿岸に漂着しても、中国当局が責任を持って福州の琉球館まで護送し、滞在中の生活物資を提供しました。琉球館に駐在する琉球人役人(存留通事)は、漂着琉球人の世話や送還を担当しました。清代(順治~同治の230年間)、進貢船などの公用船の遭難件数は65件、民間船の遭難漂着件数は324件、その乗船者数は5470人、死者は660人と記録されています。

第五に、中国で客死した琉球人の位牌を安置する場所としての役割です。康煕30年(1691年)、程順則らは琉球館内の天妃宮の傍に崇報祠(位牌殿)を建て、中国で客死した琉球人の位牌を安置しました。現在、館内には10基の位牌が保管されています。

最後に、情報収集や情報交換の場としての役割もありました。例えば、1840年に起きた「アヘン戦争」の情報は、広東から琉球商→士通事→存留通事(琉球館滞在)→琉球王府→薩摩藩→江戸幕府という経路で、最終的に江戸の徳川幕府に伝えられました。逆に、幕府や薩摩の情報も琉球館を通じて北京に伝達されることもありました。1872年、琉球国が「琉球藩」に改編された情報は、1876年に琉球から琉球館に密航した向徳宏(幸地朝常)と林世功、蔡大鼎らが福州当局に琉球国の存亡の危機を訴えました。

『歴代宝案』や明代の高岐が編纂した『福建市舶提学司志』によると、琉球館(柔遠驛)は、頭門、儀間、大堂、表座敷、奥の間、月台、左右両房舎22間、軍士部屋、天妃宮、朝貢工場、控海楼、尚公橋など多くの建物から成り、周囲の屏も含め最大6000㎡に及ぶ時期がありました。琉球館は何度も火災や台風、戦火による被害を受けましたが、その都度修復され、琉球専用の施設として存続しました。

ここで特筆すべき点は、1992年12月10日の『福州晩報』によると、当時の福州市書記であった習近平国家主席が、那覇市の唐真弘安議長および新垣景布副市長とともに、前日に行われた琉球館の修復完成祝賀式典に出席したという報道です。現在、琉球館の近くにある河口では、「朝貢航路」を再現する中琉交流史を楽しめる遊覧船の周遊コースが進められており、福建(中国)・琉球の友好の歴史ロマンを堪能できることが期待されています。