長すぎた「戦後」に向き合う(6)
他者の痛みを感じ取れる社会に:精神の自由と森井眞

積極的に「戦後」を終わらせようとした人々もいる。

昨年8月に103歳で亡くなった森井眞はその一人だ。年齢から推察できる通り、学徒出陣で帝国海軍に徴兵されている。敗戦後に大学に戻ると、親友2人が戦死していたことを知った。

森井が「時の人」になったのは、それから40年以上が経った1988年秋のこと。西洋史の研究者で、明治学院大学の学長職にあった。当時、昭和天皇の重病が連日報道され、街は自粛ムードに染まっていた。その頃、筆者の一人は高校生だった。ネオンが消え、娯楽が自己規制される異様な雰囲気は、社会や歴史への目を開かせる機会となった。「天皇の軍隊」の一員だった森井にとっては、それどころではなかった。戦後に民主化したはずの日本が、侵略戦争を引き起こした「天皇の国」にすぐにでも先祖返りしそうだった。

森井の名で発表した明治学院大学の「学長声明」は、当然のように拡がった自粛ムードに与せず、天皇が逝去しても「当面特別なことはしない」ことを宣言した。「休講にするとか、白金祭〔学園祭〕を中止にするよう学生に勧告するとか、半旗を掲げるとか、そのようなことは一切しない」と。同大学は、なぜそのような判断を示したのか。3つの基準が示されたが、特に最初の2つには、不徹底な「戦後」を終わらせなければとの思いが強く込められている。

1.現天皇個人の思い出を美化することにより、昭和が、天皇の名によって戦われた侵略戦争の時代であったという歴史の事実を、国民が忘れることになるような流れを作ってはならないこと。

2.現天皇個人の意志や感情がどうあれ、「天皇制」を絶対化しこれを護持しようとする主張が、どれほど多くの無用な犠牲をうみ惨禍をもたらしたかを、今後いよいよ明らかにせねばならないこと。

これらは、戦後の日本が「平和主義」を徹底していれば、この段階で宣言する必要はなかっただろう。戦争の反省を踏まえた能動的な平和主義だったのではなく、“戦争はもう懲り懲り”という受動的な平和願望でしかなかったことが浮かび上がる。そこには、「戦争犠牲者」としての自己規定さえ窺える。「学長声明」は、自分たちが何をしたかを曖昧にするのではなく、向き合うことで、「戦後=昭和の後半」に終わりを告げようとした。

「声明」には賛否双方の大きな反響が集まった。

とりわけ、天皇を冒涜する「国賊」「非国民」「卑怯者」だという恫喝、脅迫、攻撃が執拗に続けられた。教職員への嫌がらせ電話や右翼の街宣活動のほか、「国賊学長 森井眞を許すな」と書いたビラが、同大学のキャンパスから最寄り駅まで延々と貼られた。学生の就職内定を取り消すという脅しまで加えられた。時代錯誤だと感じたのは森井だけでなかった。

他方で、自粛ムードに疑問を感じつつも、声を挙げる場がなかった市民からは、多くの激励の声が届けられた。自由と権利を自ら天皇に明け渡し、全体の流れに逆らわない集団主義の根深さを、自身の中に見出した人々もいた。教員だけでなく多くの学生も「学長声明」を支持し、授業期間内に「天皇問題を考える一週間」を自主的に設けて、「学長声明」を足元から実践した。母校を誇らしく思うという卒業生からの声も少なくなかった。

それでも、社会全体から見れば小さなうねりでしかない。同様の声明を出したのは幾つかの大学や学会、平和団体、労組、宗教団体くらい。取り上げたメディアも朝日新聞や岩波書店などで多くはなかった(写真1)。1989年初めに天皇が死去すると、文部省は各学校に弔意を表明するよう通達を出した。弔旗の掲揚、歌舞音曲を伴う行事の自粛、休校措置などの実施が通知された。参考資料として、大正天皇が死去した際の対応を記した文書まで配布された。「学長声明」の趣旨とは対極的に、政府は「天皇の国」としての「戦後」を継続させようとした。

写真1

それからまた35年の月日が過ぎた。昨今も皇室報道は賑やかだが、侵略戦争やその責任と結び付けて捉える観点はますます希薄となっている。他方で、平和主義、戦争放棄といった憲法の柱を「改革」したい勢力は、天皇の存在を政治利用しながら、着実に目的を果たしつつある。生活水準が低下していても軍事費を大幅に増大させる「改革」が大きな反発を生まない現実に、森井なら戦前を想起しただろう。

森井は学長を退いた後も、市民的自由がいっそう狭められていく社会に警鐘を鳴らし続けた(写真2)。森井がそうできたのは、戦争体験者だったからなのか、それともクリスチャンとしての信念だったのか。森井自身はそういう単純化に慎重だった。自身が軍国主義教育を受けた世代で、戦争を通じて日本の領土が拡張していくことについて、特に何も思わない普通の子供だったという自覚があるからだ。日本の領土にされたアジア各国には、「われわれと同じ生身の、心と肉体をもった人間が幸せを求めて一度だけの人生を生きているのだということを思ってみたことがなかった」。ましてや「日本軍が侵略して残虐なことが行われているということなど」知るよしもなかった、という痛覚がある。

写真2

森井が変わったのは、いつどのようにしてか。「戦争が終わって初めて国外に出かけ、戦争中日本軍の手でじつに惨憺たる被害にあったさまざまな国さまざまな地域の人々に直接遇って、そのうらみつらみを語られたとき、私は身のおきどころもない思いで、自分に何が欠落していたかに初めて気付いて愕然としました。私にとって一種の開眼の体験でした」。被害者に直接出会ったことで、このままでは「戦後」は終わらないと気が付いたのである。被害者や被害国民に出会い、交流するのは、森井だけにできることではない。グローバル化が進むいま、出会うのはもっと容易になっている。どのように出会うかが問われている。

森井は<「戦後」が終わった後の世界>まで見通していた。「あの戦争をやって残虐行為を働いた日本、植民地支配をやったあの日本とは違う、アジアの一国として世界の諸々の民族と一緒にお互いの価値を認め合いながら世界を作っていくような新しい日本になるためには、徹底的に過去を反省しなければ駄目なのではないでしょうか」。人類運命共同体の理念に響き合う。

「戦後」と80年近くも格闘した森井の営みは、この夏からは私たちが引き受けることになる。